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[覚書]我思う故に我在り/2012 [【アーカイブ】]

◆初めは、ただ何となく作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして始めたこのブログも年を重ねるとちょっとした回顧録にもなり…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見するワークブックになったりもする。
◆これまでの思いつきメモの2012年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。



私の人生の原風景を描き求めてみたい気持ちがあって、時空を超えた『内面世界』を訪れてみると、忘れ去っていたような“懐かしい愛情”に出逢う。


忘れ去られたもの.jpg
☆ 
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道端に座り込んで握り飯を食べる。裸電球の露店で物色する。落書きの化粧をされた野良犬は子ども達とじゃれている。舗装されていない穴ぼこだらけの道には土埃が立っている。


<2012年1月>



去る3月1日午後9時34分に91歳の母が亡くなった。


私にとっては当然かけがえのない親であるが、すでに18年前に亡くなっている父とは、対照的なタイプの母であった。
父の場合と違って、母との別れには少しばかり悔やまれる部分もあったが、過ぎ去ってみれば悔やみ自体が母に甘え続けていた証しでもあるように思う。

私をこの世に生んだ母が、他界したという事実に改めて厳粛な気持ちになる。彼女が居たからこそ私がここに存在している訳なのだ…。
様々な葛藤も繰り返してきたが…魂の次元では互いに思い合っていたと確信している。
生前は癒しを与え合うことがあまり出来ない関係だったが、それでも、穏やかで安らかな臨終の表情は、私の遺憾の念を軽くしてくれた気がする。


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偶然、亡くなる前に描き始めていた「母と台所」のスケッチだった。私の原風景のひとつとして、幼児期の台所を記憶を辿りながら描こうとしていたのだが…
私が母をどのように考え、私にとって母とはどのような存在だったのか…ついに伝えることも理解してもらうことも出来ないまま別れる事になってしまった。


「さようなら。今度は魂の次元で語り合いましょう…。」


<2012年3月>



[元凶のシステム][システムへの反撥]例えば軍隊や政治団体、会社組織などの中で行われている不条理は、人間社会に普遍的なものではなく各国それぞれの世情などによって様々に違いがある。主義・思想や宗教・世界観などを一体化して築いた、それぞれのシステム構造によって形成されているもの…それが“尺度の連帯”“呪縛の構造”であると考える。『邪悪は大きな顔をして一人歩きするものだ』…だからそれが生息できる環境(=社会システム)を打ち破っていかなくてはならない。自分たちが造らされてしまった、一部の人たちのための権力システムとその構造を塗り替えるためには、タブーを乗り越えて既成概念を検証しなければならない。


私たちは認可した事もない契約の中で生きている訳である。それがさも当然の正義であるかのように叩き込まれたままで…。


 


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[“歴史はひとつではない”という感覚が必要]

マイノリティの問題にも関わる事であるが、私たちは歴史を色々な角度から読み解くというスタンスとその理解が必要である。反対側からの見方というものが存在するという事を実感として捉えねばならない。マイノリティ、弱者の立場を認め、排除的な指向に反撥するのなら、敗者の歴史・絶滅者の歴史の観点を取り入れる事は必然と言えるだろう。


 


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[描くという表現/表現という生き様]山本作兵衛の画業を見て、気づかされた事があった。炭鉱で働き、炭鉱を見て、炭鉱に生きてきた彼にとって、創作活動のベースになるものは“自分と炭鉱”の日常生活であった事はごく自然な成り行きだろう。この“ごく自然な成り行き”というものが、とても重要な事なのだ。描きたいものを描きたいように、表したいものを表わしたいように…自分の人生を表わせば良いのだ。スタイルや形は後から生まれてくるものだから、そんなことに囚われず、統一性を欠いた人生をそのまま表現すれば良い。辿ってきた道のりを振り返って、日々の日記をしたためるように、もう一度生き直してみることも面白いものだ。

 


大聖堂の背.jpg


<2012年4月>



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愛されなければ愛を知ることは出来ない。


愛する事こそが愛を伝える唯一の方法なのだ。


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[あたらしい発想の経済~脱資本主義と脱原発]
資本主義と原子力発電…どちらも20世紀の常識であり、それをくつがえす社会などというものは考えられなかった。
しかし21世紀になって、人々は延長線上ではない発想が求められ、そういった動きが生まれ始めてきた。延長線でない発想とは“科学的で挑戦的な発想”のことである。


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[失われた私たちへ] 


手足が無くても、耳や目が使えなくても
自分を見捨ててはいけない。
それは貴方の背負ったハンディであり、貴方の責任ではない。
それは周りの人たちの責務であり、貴方はベストを尽くすのみでしかない。


しかし、手足が無くても耳や目が使えなくても
貴方には出来る事がある。


それは、愛するという事。
愛を知らない人に愛を気づかせる事。
そしてそれが、貴方の責務かも知れない。


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貴方が自分を見捨てずに
誇りを持って愛し続ける事こそが
貴方の生命の輝きなのだ。


<2012年5月> 



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旅(じんせい)の目的はやがてわかる。
“粗い写生(クロッキー)が下絵(エスキス)になり、
やがて完成した絵(タブロー)になるように”
               【ヴィンセント.V.ゴッホ】


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一度描いた絵を再度描き直すなんて、モチベーションも上がらなくて若い頃には絶対出来ないマネだった。私は芸術というよりも冒険家であった。未踏の地に足を踏み入れることが大好きな、好奇心旺盛のクリエイター志向だった。



そんな私がある時から、過去のスケッチを引っ張り出して新しい視点から描き直しをするという『タイム・スリップ』を始める気持ちになったのは何故だろう…。


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それは時間の流れというものが二度と同じところには戻って来ない、らせん状の空間を流れるものであるように感じられたからだろう。


命は同じところには戻って来れない。過去をさらに洗練させる事が「生き続ける=創造する」ということかも知れない。



実は、遥か過去の時代に“すでに答えは得ていた”
童心の中で、青年の夢の中で、真に憧れていたものを知っていた筈だったが、いつの間にか逃げながら生きる習慣が身についていた。


上辺をどんなに取りつくろっていても、汚れてしまった精神に気づかなければ変わることは無いものだ。


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何度も引っ張り出して過去のモチーフに手を加える。かつての自分が本当に何を求めていたのか、すっかり誤魔化して道から外れてしまってはいないのか…


そういった繰り返しをしなければ、人間ってヤツは間違ってしまうものなんだよ。


<2012年6月>



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[シュールレアリズム]


シュールレアリズム…、超現実。3Dのバーチャル映像が次々に発表されるようになって、もはや幻想世界というものが決して非日常を感じさせなくなってきた。そんな世界の現状において…超現実・シュールレアリズムとは一体なんだろうか? 桃太郎、かちかち山、花咲か爺さん、一寸法師、ぶんぶく茶釜…お伽話の世界も良いかも知れない。しかし、もっとシュールな世界がありそうだ。…それは…。


 


父母や祖父母との和解の世界。父母・祖父母の世界との融合。いつか見た世界、見たはずのない世界なのに何故か懐かしい記憶が展開する。空間の扉は何処からかぶら下がったように開き、夜明けの空間から天馬が音符のように湧き出す。


怪しい灯りがカーテンの向こうからハイウェイを流れ出て、サイケディリックなサーカスが踊り出す。互いを理解し合うということは、七色のワンダーランドを万華鏡を通して眺めたような牧歌的風景なのかも知れない。



 


 


 


 


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[内在する隷属の構造]


私たちは生まれた時から基本的に『受け身』の精神を身につけて生きてきている。誰かの保護の下に入って、何者かに従属することで命の糧を得て成長してきた。そのために、自分の属する社会集団から認められる事が生きることの証しであると考えて、同調を余儀なくされてきたとも言える。


私たちは社会から提供されるものを受け入れる事が、私たちを受け入れてもらうための方法だと考えて『素直と従順』という教育の元に育まれてきた。 社会のきまりを守り、指示を守って従順に生きることを『正直な生き方』という。


セオリーを守れば逸脱することもなく、従順であれば分け前を取り上げられることはない。そういった不文律のようなもので私たちはいつの間にか奴隷状態に陥ってしまっている。 私たちは「独立と自由」を渇望しているように見えるが、実は隷属的な精神構造がそれらを遠ざけ、邪魔をして、時には拒否さえもしている。 


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▲ビゲラントの彫刻が物語るフログネル公園/ノルウェー:オスロの絵葉書より


<2012年7月>



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「闘う気持ち」はとても大切だと思う。
“闘う”と表現すると一部の人たちは“穏やかでない”と反応するけれど、その誤解が何かにつけて論議を間違った方向に進めてしまう原因になっている。


“闘う”とは姑息な妥協をせずに、奴隷の心を捨てて、尊厳を守ることである。


何故、私たちは誤った情報に依存して扇動されたり自分の首を絞めたりするのだろうか?
それは外面に弱いからだ。権威に弱く、名目に弱く、ブランドに弱く、そして綺麗ごとに弱い。


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今を生きる。それが私たちに出来る最善の努力だ。
そして、何かと闘い続けなければ 今を忠実に生きることは難しい。


自身の誠に背を向けて、解かった様な台詞を言いながら生きるのも要領かも知れないが
そんな立ち振る舞いで終わる一生ならば、私には何の輝きも見出せない。


簡単に「優しさ」なんて口にするけれど、優しさを維持するには闘い続ける精神力が必要だ。
手強い相手に飼い慣らされず、闘い続ける毅然とした態度が必要だ。


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私たちの体の中には毒素が生きている。それは体を維持するために必要な免疫力だ。
そしてその免疫力で闘いながら、私たちは今を生きている。


私たちは何者かに「生かせてもらっている」という発想で生きるか?
「生きる」という自意識を強く持って生きるか?
どちらでも良いことなのだけれど、それが自身の人生観を大きく変えることになる。


<2012年10月>



世界とは多面的で包括的ななものである。
私たちはその中で一個人として生きているに過ぎない。
私たちはそれぞれがそれぞれの願望に従って生きているだけで、
決して全てを知る事はできないし把握する事も出来ない。
全てに関わる事も出来ないし認識しあう事も出来ない。
…それが本来の現実的事実なのだが…


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…まるで私たちの全てに関わるかのような幻想を掲げて
ひとりひとりの死活問題であるかのような緊迫感で
私たちを組織化して戦場に駆り立てようとする。


私たちは本来、一個人の願望に生きること以上の事は出来ない筈なのに…


 


あなたを愛している。
私にそれ以上のことは出来ない筈なのに…


<2012年11月>



もろびとこぞりて迎えまつれ…
久しく待ちにし 艱難の向こう側に抱かれた安らぎの魂を


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[もろびとこぞりて]



天より降りそそぐ星のきらめきは ひとときの童心を呼び起こさせる。人を救うということは貴方自身が救われるということである。


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[降り注ぐ星]



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本当のことを言うなら、人には誰もがたどり着きたい場所がある。そしてそれに気づいていない人がいる。気づいていない場所に人はたどり着くことは出来ない。


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[光のミサ(礼拝)]


☆ 


何に魅かれて人は足を進めるのか?何を求めて人は手を差し出すのか?何を伝えようと人は口ずさむのか?すべての答えが出揃っているというのに、人は何故問い続けるのだろうか?


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解明への入り口に向かって今日も人は歩み続ける。愛するために疑い続けながら…、許すために恨み続けながら…。


<2012年12月>

 


 


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