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[覚書]我思う故に我在り/2013 [【アーカイブ】]

◆最初はただ何となく作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして始めたこのブログも年を重ねるとちょっとした回顧録にもなり…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見するワークブックになったりもする。
◆これまでの思いつきメモの2013年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。



「侍の心」とは何だろう?「武士の魂」とは何だろう?…
城下を歩いていて、ふとそんなことを考えさせられてしまった。


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城外に出るとすぐ近くに警備を受け持つ武士たちの暮らした「御城番屋敷」が立ち並んでいる。
いざという時の待機をしながら、ここを棲家にして暮らしていたわけだ。


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 ▲前方にお城の石垣が見える。落ち着いた佇まいは武家の生活を物語っている。


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150年が過ぎた今でも実際に人が暮らしている。
ここに流れている時間はまるで別次元のようだ。ゆったりと、それでいてしっかりと確かめながら息づかいをしているように思える。


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 ▲縁側にはお正月飾りが飾られている。誰に見せるためでもない内なる信仰の証しだ。


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奥の間には縁側から障子を隔てて、明治の頃のものだろうかミシンが置かれている。左の押入れの部屋には紋付袴が掛けられている。お役付き武士のごく日常的な生活風景が感じられる。


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☆ 


私は思う。侍と言っても人の子、刀を持っているからと言って決して武勇を求めて生きているだけでもなかっただろう。極ごく人並みの家庭的な暮らしを築いていたことだろう。
武士の日常的暮らしからは、家族や家庭に対して清廉潔白な家父長意識が感じられる。我が身を律して生きる事の強さと優しさを日々実践する気持ちが侍の信条だったのではないだろうか。


主君に仕えながらも決して己の家族や家庭をないがしろにはしていなかったように思える。“己を虚しゅうしてして滅私奉公する”といったような思考が一般的だったとはとても考えられない。
人としての強く優しい生き方を手本として実践する、そんな誇らしい自意識で生きていたのではないだろうか?だからこそ家族・子孫を思いやる心が今日まで受け継がれてきた家の伝統として生き続けているのであろう。


<2013年1月・記>



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一晩中 火を灯し続ける人がいる。


闇の時間に灯火を捧げ 日の出と共に使命を終える。


その魂はきっと 我が身がどの様な道を辿るのかを知っているのだろう。


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今にも年を越さんとする神社の境内で見た光景は、粛々と行なわれる「伝承」の姿だった。


人々はけじめをつけて、禊を経て物事を一新しようと考える。時には歴史を改ざんしようとさえ企てる。
しかし森羅万象すべてアナログの繋がりの中に存在していて、デジタルな発想は虚構のストーリーである。


私たちは永遠の伝承の中に生きているのだ。…『永遠の伝承』


<2013年1月・記>



出家でもしていない限り 多くの人たちはこの社会に暮らしていることになっている。


この社会のこの価値観と物差しの中で 喜んだり悲しんだりしながら暮らしている。


目を逸らすことは出来るけれど しがらみを絶つことは難しい。


この社会にどんな価値を見出して 私たちはどう定義づけして生きてゆくのか?


それが人生を形成し 物語る基盤になるのだと思う。



プラント開発の任務を受けてアルジェリアにまで出掛けていた人たちが、テロリストの凶弾に命を落とすという不条理が起こった。


殺された者の家族や関係者には怒りと失望と悲しみのみが残るのだろう。やり場の無い怒りは誰に対して何処に対して向けられるものなのか…。


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誰が悪、誰が正義というものでもない。裁くことも出来ず一切を清めることも出来ない。 


社会というものはそういった人間の無力さをさらけ出す世界でもある。


もっとお伽噺の様な夢物語を体験したいところなのだが、それは人々の精神世界にかろうじて存在しているのであって、人間の作る社会というものはまったく不完全で愚かしさに満ちたもののようである。


怒りや憤りを生み出しはするが、決してそれを現実に解消する答えはない。そんなまるで暗黒の海洋を彷徨っているかのような社会に、人が生き続けていられる根源は何なのだろうか?



己の身の丈を慈しみ愛すれば良いと思う。


社会などという途方も無い広がりを理解しようとしたり把握しようと考える必要はない。


高さよりも広さよりも…深さを求めることも必要で、社会の表層に流されず深い中心に身を沈めることも必要なのだ。


 


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<2013年2月・記>



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一寸先の目的に向かって生きているのが私たちの現状だ。でもある程度の歳を経て自分の身辺以外にも目をやった時に、一体どんな未来を描き、どんな未来に目を向けているのかと考えてしまう。



何かを遺そうとして遺す必要はない。何かを築こうとして築く必要はない。何を期待する事もなく何から期待される事もなく。ただただ生命を一生懸命燃やし続ける


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私はこれまで、良き未来をかたち作ることが重要だと考えてきた。しかし改めてそういった考えに固執することは間違いだと気づいた。
世の中というものは決してひとつの形で結論づけられて安定的にとどまっているものではない。今の社会に不条理を見出して、それを改善してゆくことで未来をより良いものにしてゆこうと実行してゆく…
それは本来の健康的な思考と生き方だとは思うけれど、しかし、社会というものは永遠に完成しないものであるし、恒久の平和や幸せなどはやって来ないものである。
例えば多くの革命運動がそうであるように、改革も改善もその時点では有意義なものであるけれど人間の作り上げたものなどは時間が経ってしまえば無用の長物に色褪せ朽ち果ててしまうものなのだ。


☆ 


必要なことは「どのような環境にでも対処して生き延びる知恵」を伝授すること。今をどうやって生きてゆくかを体得して、実践によって伝えること。


 


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<2013年2月・記>



『悪』…
それは人間が存在し続ける限り、決して無くならない概念である。


ときには、まるでそんなものが無いかの如く、見て見ぬ振りをして満ち足りた善意の世界を語ろうとするけれど、現実の世界において人間は、もっと強い意志を持って非情の世界を直視し対決する姿勢を培っていかなければならないものだと考える。



もともと中世の日本における『悪』とは、欧米社会の『DEVIL』とは違っていて、日本人は異形で超人的な力を持ったものを畏怖の念も込めて『悪』と呼称していた歴史がある。


だから日本人と日本の文化においては、時には『悪』といったアウトロー的なものを法を超越した存在として肯定しようとする気分があるのかも知れない。欧米社会と比べて、本来の日本文化は法の束縛を嫌う自由な発想から成り立っている事を改めて発見する。


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私は悪というものよりは『偽善』の方が忌まわしく卑怯で軽蔑すべきものだと思っている。「嘘も方便」という考え方には理解を示す部分もあるが、偽善者の嘘偽りはその範疇から外れている。善人を偽った言葉や態度は、悪に対して優越感を持った挑発的な行為とも言えるだろう。


『悪』を徹底的に弾劾し削除しようとするものは、偽善という隠れみのを被った卑屈で強欲な小心者である事が多い。
悪の要素と対峙・直視してその真意を問い見極めること、つまり“悪と同等の位置”に立ってそれを吟味する事が、人間的な捉え方であると考える。



悪のイメージを恐れて忌み嫌って、直視しようとせず背を向けることでタブー視してきたものはたくさんある。例えば「戦争は悪だ。徴兵制度反対」と言って軍事を学ぶ事をしてこなかった国民が、バランスを失った大人になって国際関係の感覚が麻痺してしまう、それも一種の“無菌教育”の結果かも知れない。(確かに、徴兵制度は時の権力を守るための警護団として洗脳される危険性は十分考えられるけれど…)
本当に戦争に反対して戦争を起こさせないようにするためには、『戦争とはどんなもので、どの様にして始まるのか』といった事を学んで実践しなければ、誰もが無力の烏合の衆になってしまうだけであり、これが現実なわけである。


毒は食わなければ免疫力はつかない。偽善で逃げても打ち勝ったことにはならない。『悪』と呼ばれるものは対等に対峙しなければ、その本質が見えてこないものなのだと思う。



世の中はいつの時代でも、未処理のまま放置しておいた重要課題が元となって混迷を生み出す。
現代の私たちの切迫した苦難の正体とは一体どこから来たものなのだろう?私たちが見て見ぬ振りをしてきた数々の事柄の中にその解決策は見つかるのではないだろうか。


<2013年4月・記>



訳あってか人びとは『死』というものを忌まわしいものとして理解し、忌避意識を植え付けながら忌み嫌ってきたように思える。


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『死』を直視せず、考えることも顧みることもなく過ごすという事は「知らないままに生きて、知らないままに去る」に等しい事だと思う。
この世に生まれてきたことに対して自分は少しの関わりもないと考えるが、人生を生きて死に至る際には自身の関わりを無視する訳にはいかないと思っている。生まれ方は意図できないが、死に方は意図できる。


『生』のさらに向こう側にある『死』の概念をもう一度改めて問い直し、直視することによって自分なりの概念を築くことは日々生きている命を己の手に取り戻すことであり、改めて生き直す意味のように思える。



どうすることも出来ない宿命というものを、私たちは多くの部分に背負わされてこの世に生まれ出でた。
思うがままにならない与えられた生命は、遂には最終的に召されてしまう定めにあるのだが、それでも私たちはこのつかの間の掛け替えのない“ひととき”を精一杯の歓びで満たそうとしている。


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生きている命の時間とは、人間の一生とはいったい何なのだろうか?そんなことを考えてしまうのは人間であることの証明であって、考えずに生きる事も出来ない訳ではないが、それでは“人間を放棄したこと”になる。
痛みや苦しみを伴う場合もあるけれど、人は“生きている命の実感”を感じ取り、そして分かち合うということが与えられた能力のひとつなのだ。


ホワイトホールから生まれてブラックホールに去ってゆくような、まるで人生劇場の舞台(ステージ)こそが人の一生とも言えるかも知れないが、たとえ脇役であっても与えられた役柄(役割)をしっかりと務め上げることが全体の調和と完成に近づく。


主役であろうが脇役であろうが、調和を構成する貴重な一片(ワンピース)であることに代わりは無いということを理解しなければ、人生とは空虚な幻想でしかないだろう。



死をもって人生は一応終わることになるが、だからこそ“人生の意味”と“その向こうに在るもの”を理解しようとすることが、人間が人間であることの証しなのだと考える。


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私の縁故に死と直面して今この時を生きている人がいる。医師から余命を宣告されて毎日を生きている。


たくさんの苦労も背負いながら生きてきて、人生の終盤に入ってこれからという時期なのにそんな結末を迎えようとしているのだが、それでも彼女がこの世に生まれて、生きて、過ごしたことの奇跡と深い意義を感じて旅立つことを、私は心から祈っている。


一刻一刻が終わりに向かっての命の刻みなのだ。少しずつ確実に終わってゆく日々がこれほど敬虔に去りゆくことを、私はこれまで本当に知っていただろうか?


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私は決して「死」に対して最終的な結論を得た訳ではない。今は確信を持って語れたとしても、「死」の概念や意味合いは私の命の経過と共に変わってゆくものだろう。


しかし私はこのように思っている。「死」から目を背けず、そこに埋もれた密かな奥義を求め続ける事は、歳を経た者に与えられた最後の仕事なのかも知れない、と。


<2013年5月・記>


 



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日本の一般人は優秀です。頭がいいです。色んな情報や知識をよく持っています。買い物に行ってもおつりの計算が暗算で出来て、シロウトでもサイドビジネスで株式や投機に参加したりも出来ます。外国の大統領や首相の名前を知っていたり、他国の歴史なども知っていたりします。世界の多くの国では、一般庶民がこれほど物事を知っている事は少ないです。我が日本の人たちはなんて頭が良くて勉学に熱心なんでしょう。


これが日本の庶民が後押しして、教育者と教育内容がつくり出した“成果”です。



片や教育授受の格差もどんどん広がる一方です。教育授受の格差とは情報知識量の格差でもあり、情報収集力に大きく差がつくという事はその先の可能性の選択肢にも差がつく結果になって、うだつの上がらない者はどこまで行っても現実的な展開が見えてこないというのが実際の社会になっています。


この様なブログを見たり書き込んだりする機会さえ与えられない、そんな状況に生きている人たちこそが自己の存在アピールを切実に必要としている者なのだという事を、どれだけの人たちが感じ取って知っていることでしょう。


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教育の貧困は、大人たちのつくっている社会の貧困から生まれます。貧困とは“お金が無いこと”だけを意味するものではありません。貧困とは富を生むことすら出来ない社会環境のことなんです。


<2013年5月・記>



時として懐かしい風景に出会うと心洗われるものだ。


何に懐かしさを覚えるのかと考えてみれば、それは“空の広さ”であることに気づいた。


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空の広いことは良い。


遥か向こうにある別世界を想像させてくれる。


そして何よりも体の中から成長の息吹があふれ出す。


これが童心の源であるような気がする。


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街の佇まいが時間の逆流という錯覚を起こさせることがある。


そんな思索遊びの散歩が面白い。


▼ 珍しい鉄造りの蔵/三重県松阪市日野町
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板塀のある風景が心を和ませる。


垣根の曲がり角で落ち葉の焚き火に暖を取っていた風景を


いまではもう見る事が出来ない。


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<2013年7月・記>



一歳3ヶ月になる孫娘が大人たちの会話に混ざって多弁に言葉を発していた。


まだ言葉として成り立っておらず意味不明な単語の羅列なのだが、それでもひと通り文節らしい体を成してはいる。


とにかく、何らかの形で大人たちの会話の輪に加わりたいようなのだ。そのために最近ようやく覚えた“話す技術”を駆使しているらしい。


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声に言葉をのせて、言葉に意味をもたせて、自己を主張することを発見したのは人間ならではの為せる業だ。


生まれたばかりの人間にとっては、声を発する目的は人々の輪の中に加わるためのものに違いない。何故なら人間はひとりでは生きてゆけないものであることを知っているからだ。


人は連帯の中でしか生きる事が出来ない。



それは猫にとっても同じだった。


猫たちは身勝手な集団のようだけれど、連帯の中でしか生きられない事をよく知っている。


だから時々、人間の前では“借りてきた猫”のような態度をとる。


そして“猫なで声”で鳴き声を発するのだが、媚びた真似をしているだけで、そこには何の意味も無い。


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そもそも鳴き声で発した言葉なんて感情があるだけで、何の意味も無いものなのだ。


…私たち人間にしたって、同じ事なのだと思う。


 


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<2013年8月・記>



人間は根本的には不幸になるように出来ている。


すべてを受け入れがたく生きる存在だから、どうしても不幸を感じざるを得ない。



幸せという概念を幻想の中に創造してしまったからこそ、不幸と背中合わせに生きることになる。


不幸は決して誰の意志でもなく、誰の責任でもない。


それは根本的に組み込まれた、人間の生きる世界の概念なのだ。


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人間は根本的には幸せになるように出来ている。


いずれすべてを手放して去りゆく存在だから、解き放たれた幸せを感じることになる。



不幸なこの世に生まれ出でてきたからこそ、幸せの存在を知ることになる。


幸せは決して誰の意志でもなく、誰の仕業でもない。


それは根本的に組み込まれた、人間の生きる世界の概念なのだ。


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そして、人が亡くなった。


まだ人生の半ばでガンを患い、そして闘って亡くなった。


…それは虚しいことだろうか?悲しいことだろうか?


たとえつかの間のひと時であったとしても、


生まれて来れたということに…自分自身に出会えたという事に…


 


宿命を感じないだろうか。


<2013年9月・記>



目の前に山があるようだから


もうひと山 越えてゆこう。


ここでお仕舞いにしたって構わないんだけれど


折角だから 歩んでゆこう。


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何が正しくて 何が真実で


何を求めて 何を現わしたいのか…


そんな事は分かっているんだけれど


終着点は 私が決めるものではないみたいだ。


…だから まだまだ歩いてゆこう。


<平成25年・歳の瀬に向かって>


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来年は なんだか少し 面白いことが始まりそうだ…


<2013年12月・記>




 


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