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Macintosh LC520 の思い出 [タイムスリップ忘備録]

【Macintosh LC520 の思い出】

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<Macintosh LC520> 1993年に発売されたモニター一体型のPCで別名「タワー型マック」とも呼ばれていた。CPU 25Mhz、標準搭載メモリーが4MBでモニタは14インチの最大解像度640×480、ハードデスクは80~160MBという今では考えられない様なレベルだったが頼りになるマシンだった。

フリーの広告デザイナーとして仕事をしていた頃にApple社のMacintosh が雑誌で紹介されていてコンピューター・グラフィックスをかじってみたいと思ったのが始まりだった。
'80年代の中頃でパソコンと言ってもMS-DOSコンピューターしか目にかかることのない環境で、モニター上でグラフィックスのお絵描きが出来るなんて言うのは一部の経済的に豊かなアーチストにしか出来ないと思われていた時代だった。
まだ発表されたばかりのMacintosh Classic が100万円以上もしていたが、紹介されるCGに憧れとため息の連続だった。

それから数年後ついに憧れのMacintosh を手にする事になった。名古屋・大須のパソコンショップが、LC520を二十数万円で限定セールに出していたのを新聞広告で見つけたので車を走らせて急いで買いに行った。
家に持ち帰ってからというものは連日連夜パソコンに懸かり切りで夢中だった事を覚えている。特にバンドルされていた「ハイパーカード」というドローソフトはMac らしい代表的なアプリでCGの感触を味合わせてくれるものだった。

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   ▲ 当時ハイパーカードで描いたイラスト

それからというものは当時主力だったカテナ社のペイントソフト(※競合品には発売されて日の浅い「Painter」があってアドビ社の「Photoshop」や「Illustrator」はまだVer.1の時代だった)やゲームソフトなどを買ってパソコン・ライフを楽しんでいた。
後にPoweMac やG4などにバージョンアップして、雑誌掲載のデジタル・コミックも描くようになって仕事にも活用していったが、LC520 は私にとってのPC黎明期の象徴だった。

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「カモメのジョナサン」とブレイクスルー哲学/思想のタイムスリップ [タイムスリップ忘備録]

『カモメのジョナサン』は70年代初頭にアメリカで出版された短編で、カウンターカルチャーとして一大ブームとなった。

あの時代、確かに世界中が混迷の時代だったときに若者たちは何か新しい価値観と哲学的な道を求めて試行錯誤していた。
そんなときに登場したのが、若者のバイブルとなった『Jonathan Livingstone Seagul』だった。

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他の群れとは少し違った一羽のカモメの物語が、何故これほど多くの若者に共感を得たのか?
“ドロップアウト”という言葉が、当時の若者たちの感覚では前向きで積極的なニュアンスで伝わっていた。

世界はグローバル化と言われているけれど、実際には各国が自国の保護政策に躍起になっていて、意識は内向きになっているのが現実だ。
自国の歴史・文化の評価を高めるムーブメントは良いが、ますます狭い意味での民族主義に囚われてしまっている輩も見受けられる。
どうして人間はもっと自由な発想、自由な存在になれないのだろうか?そもそも人間にとって“自由とは幻想の産物”なのだろうか?だからこそ『カモメのジョナサン』のようなストーリーが青年たちの寓話として人気を得たのだろう。

しかし、そのフィクションとしての寓話でさえも今の時代では理解され難いように感じる。

ビジネスの世界でこそ“ブレイクスルー”とか“イノベーション”とかいう言葉が交わされたりもしているが、所詮はアメリカ留学でMBAを取得して来たコンサルタントが輸入した言葉遊びに過ぎないと感じている。
本当にその言葉を自分のものとして理解しているのなら、人々はもっと社会を意義あるものに変革出来ている筈だと思う。 

「チェンジ」とか「構造改革」とかいう言葉もイマジネーションとして言われている耳ざわりの良い言葉のようで、血を流し汗を流すアクションとして捉えていないのが現代日本の市民感覚だ。

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 ▲ 五木寛之・訳 日本語版「カモメのジョナサン」

 「カモメのジョナサン」の日本語訳は五木寛之氏が著していた。

昨年、40年ぶりに改訂出版されたらしいが ’70年代の若者のオピニオンが現代の若者に理解されるのだろうか?
そして…なぜ・いま・カモメのジョナサンなのだろうか? 

<2013年4月・記> 

 

[思想のタイムスリップ]


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「何でも見てやろう」とコミューン思想/思想のタイムスリップ [タイムスリップ忘備録]

『思想をタイムスリップする』

自身の生きてきた道程を検証する。それは時には大きな過ちを見い出す事もあり、時には辛い振り返りになるかも知れない。
しかしその愚かさも含めて、自分というものを包み込み救い上げることが「自己を生き抜く」ということなのかも知れない。

思想の変遷をタイムスリップすることは、表層的なレトロ・ブームとは一線を画す“知の散策”と呼べるものだろう。 

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小田 実の「何でも見てやろう」や五木寛之の「青年は荒野をめざす」に代表される“若者の海外放浪ストーリー”は当時の若者の思想的生き方に少なからぬ影響を及ぼした。 

「何でも見てやろう」で世界を旅した小田 実はその体験から帰国後ベトナム平和連合(ベ平連)を立ち上げて反戦活動を推進したが、それはフランスのソルボンヌ大学で燃え上がり世界中に拡がった学生運動と連動し、70年安保を前にした日本の学生達も巻き込んで日本国内では最大の社会運動として発展していった

社会的オピニオンや価値観に影響を与えるマジョリティな団塊の世代たちの起こした行動はその後も環境問題などの市民運動に変遷して、共同体をイメージしたイデオロギーとしてのコミューン創造をめざしているようにも思えたが、しかし結果から見れば無意識のうちに単なるファッションと化していったように思える。

当時、世界の若者たちが唱えていた“コミューン思想”とは一体何だったのだろうか?結果的にそれが幻想であったとしてもどのような幻想を抱いていたのだろうか?
「思想のタイムスリップ」として、私はいずれ改めてこのコミューン思想を検証してみたいと思っている。何故ならこの団塊青年の思想的遺伝子が時代を経て今日の“絆思想”に受け継がれているように感じられるからである。

ともあれ社会の矛盾や不平等に抵抗をしていた筈の若き志士たちが挫折を経て見い出した生き方とは、アンチ・イデオロギーの刹那的な社会の構成員となる事であってその後およそ20年後に訪れるバブルの享楽時代にこの世の春を垣間見ることだった。

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▲ '60年代後半、一部では当時の若者のバイブルとも形容された五木寛之の著書。

「青年は荒野をめざす」と言って疾風のように過ぎ去ってきた若かりし日々は、時として砂時計の砂のように逆流する事もある。
夏の陽射しにも似ためまいが欧州での過去を切れ切れの幻燈のようにフラッシュバックさせてくれる。 

「放浪」という言葉が一種の「求道」にも似たニュアンスで受け止められていた部分もあった。そこには真実や叡智を追い求めるハングリーな若者の精神があった筈だった。
社会の新しい動きや文化を牽引していた当時の若者は今ではすっかり変容して、社会に飼い慣らされた分別のついた老人になっている。

70年代初めのヨーロッパを放浪する若者の間ではフラワーチルドレンやヒッピー文化の流れを汲んで「コミューン思想」が拡がっていた。
世界の各地に国籍を越えて共同生活をするキャンプのような場所があり、その代表的なひとつとしてイスラエルに「キブツ」という共同開拓地があった。
わずかの賃金と衣食住が確保されているというので私たちの間でも結構評判になっていて、キブツに向かう日本人も少なからず居た。

当時からコミューン思想とか市民コミュニティとか、国際感覚とかインターナショナル志向とか、そして最近ではグローバリズムとか…あれこれ時代に応じて言われ続けているものだがいまだに規範も何も確立されず、同じような事を繰り返されているのが現実だ。
そして書店には同じような内容の啓発書が、何年周期かで装丁だけ変えて出回っている事に気がつく。

<2014年5月・記> 


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幻想への回帰 [タイムスリップ忘備録]

私の原風景とシンクロする部分がここに在るのかも知れない。

幼児期を過ごした様々な体験はいつしかノスタルジックな幻想となって、しかし時には現実と見間違えるほど現在のリアルな情景となって私の前に現われる。 

茂田井武という画家…というよりも表現者と呼んだ方がピッタリとくる。 
また一人、画業人生を生き切った、こんなスゴイ絵描きが居たことを知って軽い衝撃と嬉しさが込み上げて来た。 
未来に対する希望と、それを推進させる勇気みたいなものが込み上げてくる喜び。

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ある意味でシャガールにも共通するような、幻想の中にどっぷりと浸かり切ってしまうアッパレ(天晴れ)な勇気を見て不覚にも私は涙ぐんでしまった。

彼の画集に添えられた紹介文の一節。
“私の描きたい絵は印象のレンズを通して焼きつけられた、脳中の印画というべきもので、記憶にひっかかって抜けないもの、過去の印象の鮮やかなものたちである。幼少時に描きためた絵は大震災で、ヨーロッパや中国で描いた画帳やスケッチは戦災で焼失したが、私の脳中の印画は年と共に濃度を増して、思い出の映像は「その時そのままの不死の姿」に近いものになってきた。”

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幼い頃に抱えていた人生に対する期待感や愛情を“幻想”と呼ぶのならそうしよう。
時にはそれを求め、それを信じて生きていた人生を私は決して嘲笑はしない。
そこに命を吹き込む事こそが、人生の総括に近づいた者たちの“勇気ある生き様”のように思う。

そんな意思表示を作品を通して表現したいと願う日々である。 
我が幻想への回帰。

 


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欧州幻想~こころの旅路 [タイムスリップ忘備録]

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▲ アムステルダムのユースホステル付近/1972年当時

過ぎ去って形も無くなってしまったものを、反芻するかのようにもう一度噛み砕きながら味わってみる。
それは年老いた私が、置き去りにしてきた時間に感謝をしたいが為の邂逅なのだろう。

ヨーロッパの国々に対して、私は私なりの個人的な幻想を抱いている。
感受性の高かった青春の一時期を過ごしたこともあって、一種のナルシシズムにも似た崇敬と愛着を持っている。
私のヨーロッパ観は幻想である。しかし自己の外側の世界を幻想でなく把握できる人間がいったいどれほど居ることだろう?

パリ~モンマルトルの丘/マドリッド~プラド美術館/ロンドン~ピカデリー界隈…それぞれに個人的な思い入れのある私的名所だ。
今ではすっかり様変わりしてしまったのが現実だけれども、そこに落として来た時代の陽炎は未だに青白い残り火のような、か細い光を放っている。
人生もこの辺まで生きてくると、寄り道をして彷徨った時間の方が味わい深く思えるものだ。

それは旅行記でもなく、現地情報でもない。私の、実に個人的で主観的な幻想の追憶であるが、そこにはもしかすると現在の現実生活よりもリアルな私の魂が存在しているかも知れない。

私の原風景とシンクロする一部がここに在るような気もする。

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現在では海外に旅しようと思えば簡単に出来るし、諸外国がそれほど遠いものではなくなった。
日常の事件や出来事もリアルタイムに伝わり、専門的な情報でさえ一般人にまで浸透している。

しかし私にとっての『旅』とは、自分自身のイマジネーションの世界のことなのだという事がようやく解かってきた。
例えば読み物で言うなら、ジャーナリスティックなルポルタージュやドキュメンタリー、ノンフィクションの世界を好む者もある反面で、お伽噺やSF小説といった仮想空想の物語世界を楽しむ者もいる。
どちらが本格派とか言うものでも無い。ただの嗜好の違いだと思う。私にとっての「リアル」が社会の規範から見れば「バーチャル」だったというだけの事である。 

青春の旅を終えて舞い戻ってきた私は、いつしかどっぷりとこの国の社会に浸かり切ってきた。
そして所詮は私たちの暮らす人間社会というものが幻想によって成り立っているという事を、歳を経た現在痛感するに至った。
この国がどうだからという訳でもない。自国も他国もない。国家を形成する社会そのものが一人ひとりの観念によって作り出されているからだ。

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私とシンクロする観念の創った青春のヨーロッパ。しかしそれは空虚な亡骸ではなく、リアルな幻想なのだ。


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カモメのジョナサン~思想のタイムスリップ [タイムスリップ忘備録]

 70年代初頭にアメリカで発表され日本でも一大ブームを起こした短編小説『カモメのジョナサン』のことをふと思い出していた。

あの時代、確かに世界中が混迷の時代だったときに若者たちは何か新しい価値観と哲学的な道を求めて試行錯誤していた。
そんなときに登場したのが、世界の多くの若者たちのバイブルとなった Richard Bach 著 『Jonathan Livingston Seagull』だった。

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考えてみれば、私たちの世代は安保闘争、東大安田講堂、三島由紀夫、あさま山荘などなど、嫌でも社会の激動に直面せざるをえない空気が充満していた時代だった。今の時代のように軽く生きてはいられない何か強迫観念のようなものがあった。せめて何にも属さずに生きる“無思想ノンポリ”というスタンスがあったが、その立場を維持する事にしてもそれほど簡単なことではなかった。

「昭和元禄」などと呼ばれ、アングラ、ヒッピーの気だるいドロップアウト文化(今にして思えば、文化というよりはファッションでしたが)と、その後に来るフラワーチルドレンのラブ&ピースに囲まれる若者と、片や『ベ平連』や学生運動に参加する事によって自己の社会的存在と政治的意見をアピールしようと悶々とする青年たち…。

そんないつの時代にも見られる“早すぎた青年の主張”は案の定、若さと共に色褪せて老獪な既存社会の前に朽ち果てた。

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丁度そんな頃に「カモメのジョナサン」は、まるで社会に傷ついた戦士を癒すかの如く現われたのだった。
そしてジョナサンの生き様…群れから離れて、ただ自己の精神的満足のために肉体的挑戦を続ける姿は、混迷から抜け出すためのひとつの癒し方であったのかも知れない。
ここにも肉体と精神の相関関係がバランスの必要性として具体的に表わされているような気がする。

人の一生というものは、その生きた時代の影響を無しにしては考えられないものだ。そして生きた時代とは、まさしくその時代の“状況と思想”のことだと思う。

その時代のトレンディで顕著な思想的側面をタイムスリップしてみることも“思想の「温故知新」”として今に通じる思考の道筋があぶりだされてくるかも知れない。
私たちは時には時代に洗脳され、時代に教育されながら、何らかの確信らしきものを抱えて次の時代を築いてきた筈なのだから…。

【Jonathan Livingston Seagull the film 】


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台風五郎の思い出 [タイムスリップ忘備録]

【台風五郎の思い出】

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<台風五郎> 昭和30年代の貸本ブームの中で、大ヒットした劇画の人気シリーズ。関西の劇画家さいとう・たかをの出世作でもある。

 もはやリバイバルは不可能であろうと思われる昭和30年代の貸本屋ブーム。このブームを共有した者たちには何故か同時代を生きた、一種の幼馴染みのような感じを抱いてしまう。
 本屋に行けば、立ち読みで人気の少年雑誌を読む事は出来たが、一泊10円程度の貸本にはそれとはまた別の世界があった。地方に暮していた私にとって、都会から送られてくるマイナーな情報のひとつが貸本の世界でもあったのだ。 

 メジャーなテレビや雑誌では得る事の出来ない個人的マニアックな世界だったとも言えるが、その後「貸本劇画」の世界から様々な作家たちがメジャーデビューを果たした事を考えると、時代の先取りだったとも言える。 後に雑誌「ボーイズライフ」の「007シリーズ」でメジャー誌に登場し、その後「無用之介」で少年雑誌でも人気を得て、遂には「ゴルゴ13」で不動の地位を築く さいとう・たかをだが、貸本の時代から劇画の世界では相当な実力を誇っていた。すでに劇画界のボス的存在で、早くから「さいとうプロ」を立ち上げて、作品も合作やらコラボレーションやら映画作りのような手法で、他を抜きん出ていた感じだった。
 ジャンルもアクションのみならず「時代劇」や「SF」など、当時の劇画作家としては異色の才能を発揮していたが、私はやはり彼の原点としての「台風五郎シリーズ」を忘れられない。

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 最終回までおよそ二〇刊ほどシリーズ発行されたと思うが、貸本の世界でシリーズを続ける事は余程の人気と実力がなければ出来ない事だったと思う。浜慎二や横山まさみち等、数人がシリーズ物を手掛けてはいたが、私はやはりさいとう・たかをのファンだった。
 当時の劇画の大御所は辰巳ヨシヒロで、描写のタッチやキャラクターの顔つきなど彼がそのベースを築いたとも考えられるだろうが、それらを完全に取込んで自分のモノにして洗練させたという意味で、さいとう・たかをは“劇画界の手塚治虫”のような存在だと私は思っている。  

 台風五郎は最終回で死んでしまうが、これは当時の私にはちょっとしたショックだった。なんとなく悲しかった事を覚えている。劇画は児童漫画と比べると、比較的ドライで非情なエンディングをするものだったが、台風五郎は明るいヒーロー的存在だったのでまさか殺してしまうとは思っていなかったからだ。
 敵のアジトで闘い残されて時限爆弾の仕掛けで犠牲となって死んでしまう台風五郎の笑顔が、大空いっぱいに描かれたラストシーンは今でもはっきりと覚えている。

 

<ご注意>
このコラムは十五年以上も前に発表した内容をそのまま転載しているため、その後に新事実が発見されたり、また今日では差別的とされる用語や表現があるかも知れません。『タイムスリップ』の趣旨としてそのままの形でアップしておりますので、その点はご了承下さい。

 


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ピアスゲームの思い出 [タイムスリップ忘備録]

【ピアスゲームの思い出】

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<ピアスゲーム> 昭和30年代初めに流行した携帯サイズのテーブルゲーム。プラスチックの丸い容器に穴が空いていて、そのままゲームの盤になる。代表的なものはダイヤモンドゲームと呼ばれるもので、10個のピンを自分の陣地から対極の陣地に早く移動させ終えた方が勝ちというものすごく単純なルールのゲーム。

 子供の頃の体験というのは兄弟との関係で色々変わって来るものだが、私の場合、上に歳のかなり離れた姉がいたために、その影響はいたるところにあった。外では同年代の男友達と遊ぶのだが、家に帰って来ると姉が遊び相手のために遊びの道具から根本的に違っていた。「少女」や「りぼん」といった女性雑誌の付録とか、「平凡」「明星」などの芸能雑誌に付いている歌本などがたくさんあった。

 正月の遊びとなると、凧上げやコマ回しもするが、羽根つきやコタツを囲んでのミカン釣りなども定番だった。しかしよく周りを見てみると、連れの男友達でそんな遊びをやっている者は珍しかった。

 

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▲盤面が木造りのハイグレード版


 ピアスゲームというのはそんな我が家の遊び道具のひとつだった。囲碁や将棋と違って、そのプラスチックで出来たゲーム盤は何だか都会的な香りがして大人っぽい気分を感じさせた。木造の貧相な借家で幼年期を暮していた私だが、今にして思えば感性を育む様々な環境は周りにいっぱいあって、ピアスゲームは共に暮した姉との無邪気で暖かだった日常をあぶり出す、記憶の中の団らんでもある。 

 

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▲ダイヤモンドゲームにはピアス形状以外にもボード形式の普及版があった。

 

<ご注意>
このコラムは十五年以上も前に発表した内容をそのまま転載しているため、その後に新事実が発見されたり、また今日では差別的とされる用語や表現があるかも知れません。『タイムスリップ』の趣旨としてそのままの形でアップしておりますので、その点はご了承下さい。

 


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小学生画報の思い出 [タイムスリップ忘備録]

【小学生画報の思い出】

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<小学生画報> 昭和37 年頃に発売された月刊漫画雑誌。秋田書店の「漫画王」が改名されたものだが、何故か一年足らずで再び「まんが王」に戻された。


 漫画雑誌に明け暮れていた少年時代、何故か記憶の片隅に残る超マイナーな思い出がある。当時の子供たちには紙模型(今で言うペーパークラフト)の付録のついた月刊漫画誌が人気で「少年」「少年クラブ」「少年ブック」「日の丸」「ぼくら」「少年画報」などなど多種類の雑誌が発行されていたのだが、この「小学生画報」の誌名が記憶にある人は非常に少ないのではないかと思う。

 秋田書店からは「冒険王」「漫画王」の2誌が発行されていたが、その「漫画王」が何故か突然「小学生画報」という名前に変わった。理由は多分、販促効果を考えての事だと思う。確かに他の雑誌に比べて「漫画王」はイマイチ人気がなかったように、子供心にも感じていた。どの雑誌にも必ずテレビ化されて看板となっている人気連載があるものだが、例えば「少年」の「鉄腕アトム」や「鉄人28号」、「少年クラブ」の「月光仮面」、「少年画報」の「まぼろし探偵」、「ぼくら」の「少年ジェット」・・・。しかし、「漫画王」は何故かそういうヒット作品に乏しかったのだ。


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 月刊漫画雑誌の目玉の「付録」においても「漫画王」はパッとしなかったように覚えている。私などは付録目当てで買っていたものだから、付録に対してはかなりシビアな目を持っていた。付録では「少年」と「少年クラブ」が群を抜いていたが、「漫画王」はその作りといい色使いといいもうひとつ垢抜けしなかった。

 とにかく、そんな状況から脱出するためか誌名を変えてみたのだろうが・・・改名創刊の表紙を見て私の受けた第一印象は「なんかカッコ悪くなったなあ~」だった。

 案の定、数カ月間発行されただけで一年も経たずに元の「まんが王」に戻ったが、私にとっては明治製菓とキンケイ食品が合体して発売した短命商品「明治キンケイ・ミルクカレー」と同じくらい印象度の強いものとして、心の片隅に残っている。(もしも「小学生画報」をお持ちでしたら、どれくらいの稀少価値、プレミアがつくのか調べてみると面白いでしょうね)


<ご注意>
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透明ランナーの思い出 [タイムスリップ忘備録]

【透明ランナーの思い出】

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<透明ランナー> 昭和30年代に少年たちの間で行なわれていた草野球の“特別ルール”。2~4人で野球をしようとした場合、打者がヒットで出塁してしまうと途端に人数が足らなくなるため、とりあえずランナーが居るという設定にしておいてそのまま試合を続行するという、子供らしい無茶苦茶でアバウトなルール。

 嘉門達夫のコミックソングの中にも登場するので、経験がなくとも言葉だけは聞いた事のある若者もいるかも知れない。「透明ランナー」の名称は当時よく流行っていたスリラー物語に登場する「透明人間」から生まれたのだろう。
 空き地でのソフトボールが定番だった時代。小学校の上級くらいになると人数も集まり、きちっとしたルールの元で他校生との交流試合なども出来るようになるのだが、小学生になるかならないかの年齢の頃は何しろ近所のガキ連中を無理矢理集めてするものだから、中にはルールなんて全然知らなくて集まって来る者もいたりした。それでもまだ、人数がそこそこに集まればいい方で、どうしても足らなくなるとこの特別ルール「透明ランナー」の登場となる。


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 4人でやる場合は、守備側チームの二人はA:ピッチャー、B:内野兼外野手。攻撃側のチームはA:バッター、B:キャッチャーといった具合になるのだが(これでも何かヘンな感じなのに)3人になった場合は、ピッチャー、バッターに加えてどちらの味方ともならない“永久に守備の人”というのが現れる。そしてそういう役は必ずと言っていい程、最年少の者かおとなしい性格の者がやらされる事になってしまうのだが、それではあまりに可哀想という事でたまにピンチヒッターの役で打席に立ったりもした。(打つ事が楽しくてやっているのが殆どだったから)しかし、外野の守備がいないものだから、その彼はどんなに大きな当たりを打ってもワンベースしか行けないルールになっていた。そしてヒットを打つとさっそく「透明ランナー」と交代して彼はいそいそと守備に廻る事になる。

 「透明ランナー」は通常はアウトにならない。(それでも時々、内野手をファーストに張り付かせて牽制を投げるという馬鹿馬鹿しいピッチャーがいた)常に“本物のランナー”の前を走っている事になっているので“本物”がホームに生還すれば当然「透明ランナー」もセーフという事になる訳だが、かつて“本物”が3塁で止まってしまって送球がバックホームされた時には大問題になってしまった。 「今のはクロスプレーでアウトだ」「いや、ギリギリでセーフだった」などと、子供ならではの真剣さで解決の糸口のない不毛の討議が延々と続けられた事を覚えている。

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 それにしても今思えば、あの頃の子供達は遊び方を自分たちで工夫して考え、ルールや賞罰を合議制で生み出していたものだ。やれ“手作り”だとか“コミュニティ”だとか大人に音頭を取られなくても自由に勝手にやって支障もなく成り立っていた。なんと自主的で創造的だったことだろう。

 

▼YouTube に、こんな歌がありました!

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チャンピオン太(ふとし)の思い出 [タイムスリップ忘備録]

【チャンピオン太(ふとし)の思い出】

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<チャンピオン太(ふとし)> 昭和37年に放映されていた少年向けのテレビ活劇。原作は梶原一騎で少年マガジンに連載されていたマンガをテレビ化したもので、後に「タイガーマスク」を生み出すに至るプロレス漫画の初代作品。

 力道山というヒーローはいたものの、当時のプロレスはまだまだマイナーで胡散臭い部分のあるスポーツだった。映画化やドラマ化されるスポーツといえば、国民的スポーツである「相撲・柔道・野球」が殆どで、プロレスなどというものは‘下品で野蛮でキワモノ的’な扱いだった。(ま、確かに実際もそんなものでしたが・・・)

ちなみに、空手にしてもブルース・リー(正確にはカンフー)と大山倍達が現われるまでは完全に悪者の使う格闘技だった。映画「姿三四郎」や人気漫画「イガグリくん」に登場してくる悪役の多くは「空手家」ばかりで、何故か皆、着ている空手着が黒いのばっかり・・・。もともとが韓国や琉球から伝わって来た舶来ものだから、その破壊的な激しさは日本人のメンタリティにあまり受け入れられなかったのだと思う。本来日本人って、あんまり過激で露骨なものは好きじゃないみたいですね。


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私は子供の頃からプロレスが大好きで、当然「チャンピオン太」は欠かさず見ていたけれど、TVドラマに対しては、子供ながらに何となく腑に落ちないものを感じていたのも事実だった。

  「普段、試合であんなにいがみ合って流血にまで発展している外人レスラーと、どうして一緒にドラマに出られるのだろう?」という、すごく当たり前でシンプルな疑問だった。試合と言うより殆ど喧嘩で、反則はする…罵り合う…地球上から相手を抹殺せんとばかりに遺恨を持って戦っている相手と、まかり間違っても会釈なんか交わす筈はあり得ない・・・と当時の私は思っていたからだ。  

 ドラマの中では確かに実際の試合と同じようにブラッシーとかの悪役外人レスラーが登場して、チャンピオン太や力道山に反則をしかけたり流血をさせたりしているのだが・・・でも、この撮影が終わった後は同じスタジオ内でどうするんだろう?まさか「お疲れさん」なんて挨拶しないだろうな?・・・などとつい、いらぬ心配をしてしまう私だった。

  当時の日本のプロレス界は現在と違って、力道山を頂点に一枚岩にまとまっていたから番組に登場するレスラーはすべて力道山の門下生で総出演していた。「豊登」「吉村道章」「遠藤幸吉」たちに混じえて若き日の「ジャイアント馬場」の姿もあった。が、何故かこの番組の中には「アントニオ猪木」の姿がない!馬場と同期だからすでに門下生としては存在していた筈なのに??   実は…後に分かった事だが、猪木だけは悪役の外人レスラーの役で出ていたのだった!外人選手の数が足らなかったのか、真意は分からないが、架空のインディアン・レスラーとしてモヒカン刈りのカツラをかぶり顔にはペイントをして登場していたらしい。猪木にしてみれば屈辱の極みだっただろうと推測する。


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  その後「BI砲」としてコンビを組みタッグ・チャンピオンに成長する彼等だが、読売ジャイアンツの投手出身としてエリート扱いで入門したジャイアント馬場と、片やブラジル移民時代にたまたま見そめられてプロ入りしたアントニオ猪木とではスタ-ト時点でかくも差が付けられていた。日本のプロレス界で永遠のライバルとなって今日の隆盛を築き上げる事になる、二人の黎明期であった。

<ご注意>
このコラムは十五年以上も前に発表した内容をそのまま転載しているため、その後に新事実が発見されたり、また今日では差別的とされる用語や表現があるかも知れません。『タイムスリップ』の趣旨としてそのままの形でアップしておりますので、その点はご了承下さい。

 


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ボーイズライフの思い出 [タイムスリップ忘備録]

【ボーイズライフの思い出】

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<ボーイズライフ> 昭和40年代前半に小学館より発行されていたティーンエイジャー向けの教養娯楽雑誌。「平凡パンチ」や集英社「プレイボーイ」の狭間にあって光を放っている雑誌だった。

 団塊の世代が大学生から高校生くらいの位置を占めていた時代、世の中は高度成長の真っ只中で若者文化全盛期に入っていた。それまでハングリーだった若者達が場とチャンスを与えられた感じで、まさにバイタリティ溢れるエネルギーが充満していた感じだ。ライフスタイルも多様化し始め、職業の選択もかなりバラエティに富んできた。絵画や音楽などアートな世界をめざす者、F-1ドライバーや航空機パイロットをめざす者、そして海外留学をして世界をめざす者などなど。まさしく“百花繚乱”の雰囲気が渦巻いていた時代・・・そんな時代の若者にモチベーションを与えるオピニオンリーダー的存在の雑誌、それが「ボーイズライフ」だった。

 確か、若かりし頃の小田実氏や落合信彦氏などの執筆もあったと記憶している。国会議員となった糸山英太郎氏や『レストラン・ベニハナ』で成功した日系人のロッキー・青木氏そして日本マクドナルドの総帥で孫正義氏のお師匠さんでもある藤田田(でん)氏のサクセス・ストーリーも記憶にある。そしてグラビアには小山ルミやジュディ・オングといった当時のアイドルの、今から見ればそれほど露出度も高くない水着姿だったが、それでも中学一年生だった私には充分刺激的だった(苦笑)。そう言えば後に『ゴルゴ13』で売れっ子作家になる関西の劇画家さいとう・たかお氏がメジャーデビューしたのもこの雑誌だった。『イアン・フレミング原作「007/死ぬのは奴等だ」画=さいとう・たかを』のコピーを目にした時、貸本屋時代からファンだった私は大いに胸躍らせたものだ。

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 その後、青年誌ブームが隆盛期を迎え、マンガ雑誌でも「ヤング・コミック・カスタム」(後の「スピリッツ」)「漫画アクション」などが続々登場して来ると、いつの間にかその役目を果たしたかのように「ボーイズライフ」は姿を消してしまった。私はいつの日かあの「ボーイズライフ」が再評価され、復刻版で再び陽の目を見る事を待ち望んでいる。

 

<ご注意>
このコラムは十五年以上も前に発表した内容をそのまま転載しているため、その後に新事実が発見されたり、また今日では差別的とされる用語や表現があるかも知れません。『タイムスリップ』の趣旨としてそのままの形でアップしておりますので、その点はご了承下さい。

 

【追記】 海外の未知なる文化に憧れ、未来への希望を掲げながら国内の閉塞感を打破しようとアピールし活動してきた筈の若者たちだったが、それがいつの間にやら『天下り』『利権まみれ』『強欲のエセ思想』を習得した醜い大人たちになってしまっていた。それは挫折か敗北か?それとも元々そんな希望なんて本気ではめざしていなかったのだろうか? しかしいずれにしても、誇り高き希望を抱えた“若者のバイブル”のような雑誌が存在した時代だったことは事実である。

 


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忍者部隊「月光」の思い出 [タイムスリップ忘備録]

【忍者部隊「月光」の思い出】

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<忍者部隊「月光」> 昭和39年頃、フジTV系で放映された人気ヒーロー番組。原作は「少年キング」連載のマンガで太平洋戦争中の日本軍諜報部隊の物語だが、何故かTVでは時代背景は曖昧なものになっていた。 

 数年前に007シリーズが登場して、世はまさにスパイ活劇ブーム。子ども達の間ではアメリカ輸入の「ナポレオン・ソロ」や“アストンマーチンに対抗して車を空中に飛ばした(苦笑)”TV映画「スパイキャッチャーJ3」(川津祐介・主演)などスパイ物が氾濫して、その後その流れは和製スパイとも言える「忍者ブーム」に移って行った。映画では「忍びの者」、TVでは「隠密剣士」が代表的なものだったが、その中で私が注目していたのが、やや小太りになった往年の二枚目俳優・水木譲演じる「忍者部隊・月光」だった。

  主題歌もなかなかシブくて、デューク・エイセスというコーラスグループの低音を効かせたサビが魅力的だったが、何と言ってもリーダーの月光をはじめとする現代の忍者スタイルが、子供番組のレベルを越えたカッコ良さでとりこになった。

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 テレビでは大人気となって第二部が制作されたり、東映で劇場用映画として公開もされて好調だったが、何故か原作の漫画の方はパッとしないまま終ってしまった。吉田竜夫のこの漫画では、太平洋戦争末期の東南アジアが舞台となっていたように思う。アメリカの戦闘機を爆破したり、米軍のアジトに忍び込んだりという活躍をしていた筈なのだが・・・何故かTVではそんな時代背景とはまったく関係ない現代のどこかの国での諜報活動をしているようだった。それにしては敵方と思えるグループが冠っているヘルメットが、どう見てもドイツ兵のようなデザインだったのも不思議だった。
 当時は、大ヒットのアメリカTV映画「コンバット」の影響もあってか、悪役のヘルメットは「ドイツ型」というのがお約束だったから、悪い奴にはやたらとドイツ軍のヘルメットを被せたものだ。(そう言えばスターウォーズのダースベーダーのヘルメットも何となくドイツっぽいデザインですが、これは日本の兜がヒントになっているらしいです)
 なるほど良く考えてみれば、輸入モノのアメリカ番組ではヒーローがドイツ兵をガンガンやっつけているのに、片や別番組で日本のスパイ・ヒーローがドイツと肩を組んでアメリカ兵をやっつけているなんてやれば、見ている方は何がなんだか分からなくなるものね(笑)やはりテレビ向けには“曖昧なシチュエーション”でやるしかなかったのでしょう。

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シスコーンの思い出 [タイムスリップ忘備録]

【シスコーンの思い出】

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<シスコーンの思い出> 昭和38年頃発売され、今でも健在のご存知シリアル食品。その後、砂糖がけとかチョコ・コーティングとか様々なバリエーションが開発され発展した日本のシリアル食品の先駆け的存在である。

 「♪エンヤカヤカヤカヤ~・・・」の音楽に乗ってテレビCMが放映され、今まで見た事もない食べ物が日本の茶の間に登場した。東京オリンピック開催よりまだ少し前の事である。
 私は雑誌などで既に発売される予定である事は知っていて、ずっと以前から楽しみにしていた。雑誌広告では美味しそうに牛乳のかかっているカラー写真と、可愛らしい『シスコン坊や』のアメリカンなキャラクターが紹介されていて、日本であってどこか日本でないようなアットホームな感じに仕上がっていた。
 テレビのCMは先のリズム音楽に乗ってシスコン坊やと女の子のインディアン(確か『チョコちゃん』という名だったような記憶がある)が踊って登場するのだが、これがまた良く出来た人形アニメでイメージを印象づけるには成功だったと思う。当時、CM人形の傑作は“ミツワ石鹸の女性トリオ”だったが、それにも勝るものだった。私はシスコン坊やの人形が欲しくてたまらなかったものだ。

 シスコーンが食べてみたくてたまらなかったのは、その新しいインパクトと共にもうひとつの訳があった。それはキャッチフレーズの「頭の良くなる朝食」という言葉。どこかの栄養学博士の推薦の言葉があって『朝食をしっかり採れば脳が活性化され、授業にも集中出来て成績が上がる』という、当たり前と言えば当たり前の話なのだが「別にシスコーンでなくとも良いのでは」などというツッコミもなしに受け入れていた。「アメリカの子供達は毎朝こんなものを食べて生活しているのかあ~」と雑誌やテレビに映し出されるアメリカの家庭風景を頭に描きながら、箱を開けて皿に盛り、牛乳・砂糖をかけて“アメリカンな朝食”を体験したものだった。

 

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 はっきり言って、当時は美味しいとはとても思えなかった。何となく文化人の朝食のような気がして半ばヤセ我慢気分で食べていたものだが、たまに購入するシスコーンをひと箱完全に食べ切った記憶はついになかった。今でこそ平気で食べているが、実際は当時の日本人の食生活から言えばちょっと無理があったのだろう。

 

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  【追記】 上記の宣伝ポスターのコピーを見るとスゴイです。 『おいしくって、栄養があって、スタミナがつく』は、まあ良いとして。『美人になれる。アタマがよくなる。アメリカでもヨーロッパでも朝食はほとんどコレ』って断言しちゃってます。今の時代なら完全に“公共広告機構”に引っ掛かっちゃうでしょうね(苦笑)

 


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冒険王クラッチの思い出 [タイムスリップ忘備録]

【冒険王クラッチの思い出】

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<冒険王クラッチ>  昭和40年頃フジテレビ系列で放映されていた、アメリカ産のアニメ。土日を除く毎日、夕方6時55分頃放送されていたが、たぶん殆どの子どもは7時からのゴールデンタイムに始まる番組がお目当てで、この3分ほどで終わる連続アニメをまともに見ていた者はいなかっただろうと推測される。

 アメリカン・コミックが原作だろうと思われる連続活劇アニメ「冒険王クラッチ」は実に不思議な存在だった。月曜から金曜まで連続で放送されていて、私も毎日のように見ていたのだが、その内容はさっぱり覚えていない。7時から始まるお目当ての番組が早く見たいものだから“早く終わらないかな~”などと思っていたくらいだった。そうかと言って他のチャンネルに変えると「ヤン坊・マー坊の天気予報」くらいしかやってないので、仕方なく見ていたような気がする。

  別段見るべきところのないアニメではあったが、ひとつ印象に残っている事があった(だからこうやって記憶の中に残っているのだろう)それは“人物の口元だけが実写合成されていた”という事だった。動きが全体にギコチない割に会話の場面だけが妙にリアルで、私は子供ながらにアメリカの技術の高さというよりもその滑稽さに感心していたものだった。アニメーションのセル枚数の加減からか、目とか表情の動きが乏しい割りにやたらと口だけがスムーズに動くために“もっとアクションシーンに力入れろよ~”とも思ったものだ。(もしかすると実写合成ではなく、口元だけが異常に丁寧にドローイングされていたのかも知れない。だとすると、益々私にはこの作品の意図が分からなくなる)

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 それに引き替え和製アニメは制作コンセプトが実にはっきりしていた。当時は「鉄腕アトム」や「狼少年ケン」なども放送されていて第一期アニメ黄金時代だったが相変わらずお金がなく低予算で製作されていた。走ってる場面などは2~3枚のセルで処理されてるんじゃないかと思う程安易な感じで、会話にいたっては適当に口をパクパクしているだけで全然セリフに合ってはいなかった。しかし当時のアニメに求めるものは決してリアリズムではなかったので“異常な口元”の「冒険王クラッチ」よりも、私は満足していた。  

 日本のアニメの神様・手塚治虫は低予算の中からなんとしてもアニメ番組を作りたいために、実に色々な事を考えたようだ。当時アニメのコマは1秒間に36コマといわれていたのを24コマにコマ落としを工夫したり、なるべく同じセルを使い廻せるように制作行程管理に力を入れたりもした。そしてそれらは、その後のアニメ制作会社のシステムのベースとなってゆくものだった。今やデジタル時代になって、アニメの制作方法もすっかり変ろうとしているが、当時の日本の過酷な制作環境が世界に名を馳せる『ジャパニメーション』の独自性につながったのかも知れない。もしも日本のアニメが最初からスムーズな口元を表現する合成技術やそれに見合う予算があったなら、これ程のオリジナリティを生み出す事はなかったのではないだろうか。

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