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君死にたまふこと勿れ [人生描画譚]

>前編「或る弾き語りの青春」からの続き 


これまでの活動の繋がりが縁となって、スポンサー兼プロモーターとして名乗りを上げる人が現われた。
都内の小さなライブから中規模のステージまで数々の場を重ねてきた成果だと感謝して、素直に今後の活動やデビューを委ねる事にした。
ここに至るまでには国内業界二番手と言われる某広告代理店に知人のパイプがあり、色々とアプローチはして来たのだが、企画検討はされても本腰は入れてもらえないままに日々が過ぎていたので丁度頃合いかも知れないと思い切ったようだった。



他の音楽関係者とのジョイントも含めて、年に数回のコンサートなどもやって来たのだがそのための活動費用は決して負担の軽いものではなかった。
いつまで続ければメジャーデビュー出来るのか、年齢も経てくるとその辺の目算が厳しく求められるようになってくる。
自分自身は“何とかなるだろう”とのんびり構えていても周囲の関係者が許してはくれないものなのだ。


チケット.jpg 


スポンサーとして名乗りを上げてくれた紳士のA氏という人物は、大物要人の書生としてたたき上げて来た人物で、銀座に顧問相談事務所を持っているそのA氏にプロモーターのような役割をお願いする事になった。
もともと政界の裏側に出入りして顔が効くらしく興行の世界にも通じる人で、知人の会計士を通しての紹介だったので信用して任せることになった。


コンサート数回をこれまでよりも大きな規模の会場で催してから、いよいよレコーディングの運びとなった。
A氏の口添えでディレクターやミキサーを揃えてもらえたが、最も助かったのはレコーディング用の編曲をプロに依頼できた事だった。
当時はまだCDは普及していなくて音楽といえばLPやEPのレコード盤だったのでA面B面の両面を満たすためにもう一曲の録音が必要で、急きょ小塚本人が作詞をしたものにプロの作曲家が曲をつけてレコーディング用の曲が出来上がった。
詩の内容は創作だったが、曲名が「ひらきぶみ」という与謝野晶子の詩歌の題名から取ったものであり、もう一方は歌詞自体が与謝野晶子の詩歌そのものだった事もあって、使用権の認可を確認しておいてからレコーディングという事になった。



歌人・与謝野晶子の詩に曲をつけて歌うということで、与謝野家の遺族からの承認を得るために足を運んだという話は聞いていたが、与謝野家には本家と分家があって話が成立するまでには少しややこしかったように聞いていた。


が、ともあれ何とか無事にレコーディングにまで話が進められてまずは一段落という事になった。


レコーディング風景.jpg 


一応レコードが出来上がり打ち上の宴も終わったところで、私は郷里に戻りしばらくの間友人とも暇していた。


どの様にプロモーションは進んでいるのだろう?ラジオ、テレビそれともCMとのタイアップ?
数か月経ち一年が過ぎても何の気配もなく連絡もこない。
コンサートのライブ活動をしていた頃は、パンフやチケットのデザインなどを頼まれたりして何かと連絡が繋がっていたのだが、もう全く違う世界に飛んでしまったのだろうか?などと思い巡らしていた矢先に…


☆ 


久しぶりに電話があり、住まいを引っ越したので顔を出さないかとの連絡があった。
以前と違う何か言葉には出せない重苦しい雰囲気を感じたが、その後の進展なども気になっていたので早速に足を運んだ。


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結局レコードを作ることは作ったのだが、その後のプロモーションは頓挫している様子だった。
そして友人からA氏は詐欺師グループのひとりだったという事を聞かされた。私もA氏とは何度となく顔を合わせていて大風呂敷の感じはあったが、詐欺師とまでは考えられなかった。
A氏というのはいわゆる「政界ゴロ」として飯を食っていたらしく、決して詐欺師ではないが非合法スレスレのヤクザ者で話に食いついたは良いが金にならないと分かるとサッと身を引いたようだ。
確かに話の半ばで頓挫したまま放置されているからには嘘つきと言われても仕方ないのだけれど、どうやら関係者同士の内部事情によるトラブルが直接原因としてあった事には間違いなさそうだった。
 



結局「君死にたまふこと勿れ」はレコードにはなったものの世に出ずに消えてしまった。そしてお家騒動だけを残したまま、数年後に私が消息を訪ね歩いた時には関係者すべてが住居不在で連絡の取れない状態になっていた。
ヨーロッパ放浪中に出会ってから青春の残り火のように大切にしてきた筈の一曲が、社会の欲望や思惑にまみれて泥の泡のように消え去った。
もしかしたらこれを限りにもう二度と会う事のない、友人・小塚広和さんとの今生の別れだったのかも知れない。


※ 

 


<了>


<平成27年2月24日・記>


 


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或る弾き語りの青春 [人生描画譚]

かれこれ30年近く過去の話しになってくる。

友人が音楽をやっていて、都内のライブステージを借りてミニコンサートを年に数回やっていたのだが、
或るスポンサーが現われていよいよレコーディングをすることになった。

それまでも、デモテープを持って知人の紹介で広告会社にアプローチを掛けたりはしていたが、いまひとつキッカケが掴めずいたので、今回の巡り合わせは千載一遇のチャンスだった。

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私が彼と知り合ったのはヨーロッパ放浪中の頃で、ホテルのレストランでアルバイトをしている時に職場で知り合った。
話を聞くと、友人と二人で音楽をやるためにロンドンに来たのだが、その後一人になってドイツに渡りクラブのステージなどでギターを弾きながら歌っていたらしい。
 
私自身も絵を描きながら放浪している身だったので共感することも多く、ある時には共同生活をしたりして交遊は続いたのだった。

同居している時には、私もギターを弾きながら“岡林信康”なんかを歌ったりもしていた。その時ほとんど彼はビートルズナンバーを歌っていたが、何曲かオリジナルを聞かせてくれた事もあって、その時に聴いた一曲が「君死にたまふこと勿れ」だった。

それは彼の高校時代の友人が与謝野晶子の詩に作曲したものだったが、若者らしい素直なメロディラインが印象的で記憶に残るものだった。 
海外の小さなクラブや、時には路上でもギターを弾きながら歌っていた生活はそれなりに良い経験となっていたのだろう。

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その後、日本に帰ってからはそれぞれの生活環境に戻って顔を合わすこともなく暮らしていたが、私が突然思い立って画業無宿を志して上京した事が再会のきっかけとなり更に交友を深める事となった。
まだまだ互いに未熟者同士が社会の片隅で悶々としている状態で、私はデッサン教室に通ったり彼は山本丈晴さん(女優・山本富士子さんの夫で、南こうせつさんのお師匠さんでもありました)のギター教室に通ったりという、まだまだ先の見えない日々だった。

しかし継続は力なりで、活動を続けて年を追うごとに関係者や認知される機会も増えて、その数年後にいよいよ例のレコーディングの話しが持ち上がったのだった。

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>後半:「君死にたまふこと勿れ」に続く

<平成27年2月18日・記>

 


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開眼還暦世代 [人生描画譚]

 

還暦というのは人としてひとつの時代を生き切って、次の異次元に向かう一種の扉のようなものではないのだろうか?…と、そんなふうに考えてみた。
私の中の世界観(宇宙観)では、存在する生命エネルギーは離合集散バランスの変動はあるが全体量としては常に一定で変わらないという感じで捉えている。
例えば人の肉体に魂が宿り人間社会を生きてゆく訳だが、死を迎えて肉体が滅して魂がエネルギー分解されたとしても、“まったくの無”に帰するわけではないと思っているからだ。

人生の終焉を意識し始めて、初めてこの世に生を受けた事の重みを感じることとなった。 
私が個人的な経験を通して辿りついたまったく個人的な見解であり、決して唯一絶対的な真実であるなどとは言わないが…しかし私は私個人の胸の中で断言する。
「私の魂は私の死によって終わるものではない。」
「私という存在は無くなるけれど、死とは魂が私個人の所有から解放される事なのだ。」

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還暦とは“開眼の機会だ”というふうに理解できるようになった。

人は生まれてから、ほとんど不本意な生き方を強いられて生きる。
様々なしがらみもあれば、不遇な環境に生まれる事もある。
人の一生というものがそういった宿命を含んでいるのだろう。
しかし世間から一歩距離を置いて生きる“隠居生活”に入れば、そういった諸々の拘束から解放された視点を持つことが可能になってくる。

出家という形式をとらなくても、己が囚われている社会通念の枠を取り外すことで魂の解放は出来る。
還暦とは社会通念から一歩退いて、大局的に自己を眺める良い機会、人生における唯一生き直しの機会なのだと思う。
この時期に目を覚まさなければ、人生を知らずして自己を終わることになる。

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偶然と必然のコラボレーション。それが人生ではないだろうか。
…そういった諸々の事柄も、頭脳だけでなく身をもって全霊で自覚出来るようになった。
頭脳を超えた理解と把握、これも一旦人生を締めくくり「還暦」を経た境遇だからこそ得られる感覚のように思える。

自分の能力や意志で物事が叶う訳ではない。
学ぶ事は必要かも知れないが、努力に比例して能力が得られる訳でもない。
自分の存在を無視して無関係に起こる様々な偶然を受け入れる覚悟がなければ
“偶然と必然の綴れ織り”のような人生模様を描くことは出来ない。

         ☆

…そういった諸々の悟りは、これからを生きてゆこうとしている青年たちにとっては無用であり、時として有害でさえある。
私は未来に希望を託して未開の領域を開こうと考える人たちに、年寄りの訳知り顔で道を諭す事は間違っていると思っている。
還暦を経た者の覚醒は、それより先の人生を生きることに於いてのみ有効な悟りなのである。

剣豪・宮本武蔵は60歳を過ぎてから思い立ち、九州・熊本の霊厳洞に入って「五輪書」を執筆したという。
私も宮本武蔵に倣って、人生から学んだ個人史として「還暦・五輪の書」でも記してみたいと思っている。

 

『還暦世代』の章~了> 

 

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考察還暦世代 [人生描画譚]

 

様々な視点から、「還暦」という節目には大切な意味が含まれているように見える。

12年のサイクルを5周回して60歳にたどり着いたところで、ひとつの人生に区切りを打つ。何とも綺麗な節目のように思える。

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人も60年も生きていれば、そろそろこの世の真髄を悟り始める頃で、もうこれ以上のものは無い事も分かってくる頃なのだろう。

生まれたばかりの頃は全てが新鮮で好奇に満ちているが、社会という枠の中で生きている内に人間の宿命のようなものに束縛されている事を発見してしまう。
若い頃は未来に多くの可能性を感じて胸躍らせて日々を生きたりもするが、ここまで来るとそれらの殆どが幻想であることを悟り、改めた世界観に目を向けるようになる。

         ☆

数々の人生経験を積み重ね還暦を経た人の、これからの指針はどこに向かっているのだろうか?
何のために、誰のために、何を達成しようとしているのだろうか?

総括には早すぎる熟年世代とは違って、老熟を向かえた還暦世代は様々な反省を基に自身にとっての未来を再スタートさせるべき世代だと思っている。 

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マスコミなどで語られている「元気な世代」として捉える事には疑問がある。何となく全体的政策的な意図を感じてしまって…。
それよりも私は還暦の意味を理解してその先の生き方を模索する、そんな実験的な人生を探究出来る世代として捉えてみたい。

元気な若い時代は真の意味で“探究”などという事は出来ない。
実験は出来るかも知れないが、世の流れに逆らって、世の中の価値観からズレた生き方を試みる者は少なく、
仮に試みたとしても殆どの場合そこに良い結果は待っていなくて、マイノリティの存在を実感する結果にとどまる。

ある意味で現役の社会からリタイアをしたという事は社会通念に縛られずそれらを超えたところに棲み処を構えられる世代になったという意味でもある。
生まれてきた赤子のように固定観念や偏見を知らず、社会性というリスクも軽くして自身の憧れに率直に生きる。そんな「生命の喜び」のような生き方を模索してみる最後の機会かも知れない。

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移りゆく時に身をまかせ

我が心根は手放さず

夕陽は沈み朝日が昇り

その悠久にさすらわん 

 



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風雲還暦世代 [人生描画譚]

 

突然のように気がついた。
そう言えば…去年すでに還暦を過ぎていたんだ。

「還暦」なんていう言葉に改めて思いを巡らせるとは考えもしなかった。 

自分とはまったく別世界の老人たちが
赤色“ちゃんちゃんこ”を着て好々爺よろしく祝ってもらう…
その程度の認識でしかなかったものを。

そもそも還暦という齢の意味を日常の中で考えてみる事があるだろうか? 

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歳のひと回りを12年と考えて、それが5回りもしたものが還暦という事になる。

どうやらそれだけ人生を廻り巡っているとゴールを越えてスタート地点にまで到達してしまうらしく、
これまでの世俗の垢を落とし、生まれたばかりの赤子のようなスタンスで
赤心を持って生き直しを始める機会でもあるらしい。

そう言えば、人生をまるでらせん状スパイラルのようにイメージしていた事があったけれど、当たらずとも遠からずだったのかも知れない。
十年一日の如く、巡り巡って輪廻の世界…
 

還暦は螺旋階段の踊り場のようなもの。
ここで一旦振り返って、このまま死に至るか生き直すか考えてみる時期なのだろう。 

         ☆

…で、私は考えてみた。
とりあえず風呂上りのサッパリした体に赤心の視点を持って、もう一度生き始めてみたらどんな世界が待っているのだろう?…と。

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行くぞ地の果て空の果て、
風雲還暦世代の明日はどっちだ!?

 

…なんて、ね。^^)<続く> 

 

 



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絵を描くという生き様~永遠の風塵 [人生描画譚]

 

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私は現在、絵本づくりに取り組んでいる。
世間一般で言われる絵本とは少し(いや多分に)コンセプトやスタイルは違っている様に思うが、それでも私は最後にたどり着いた“終の棲家”として、絵本という世界を選んだ。

         ☆

漫画を描いたり、雑誌の挿し絵を描いたり、販促物のイラストを描いたり…
人生の半分を絵を描く生活で過ごしてきた感じになる。

名作を描き上げて時代に名を刻みたい、などという強い目標意識も無かったから絵のスタイルも定まらないまま自由奔放に描いてきた。

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一度人生をしくじって踏み外し、将来の望みも期待も失って暗い闇夜をさ迷い歩いていた事もあった。
人の心を失いかけて、周りの全てが煩わしくて引き篭もりの日々を過ごした事もあったが、
立ち直るきっかけとなったのは、絵の仕事を依頼された事だった。

それは偶然の運命かも知れない。
しかし、自分自身が唯一没頭できるものに立ち直りの光明を見たというのは必然とも思える。
人は誰もが自分を生かすためのモチベーションを抱いて生きている。そのモチベーションを正しく認識することがその人の人生なのだと考えるようになった。

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多くの過ちを犯す人間としての私が“生きることを正当化する”もの、それが自分にとっては「絵を描く」という行為なのだと思う。

絵を描く事によって私は多くを学び、多くを知ることが出来た。
人間社会で生きてゆく上での様々な気づきも、絵を描く事の中から生まれた。
(実はもうひとつ私の人間形成に貢献したものとして、「合気道」という武道修練がありますが)

これから取り組もうとしている絵本のテーマにしても、絵を描き続けてきた人生の中から生まれてきたものだと思っている。

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         ☆ 

「絵を描くという生き様」そんなタイトルで絵にまつわる自分史の一部を綴ってきたが、この最終章にきてこれまでの総括とこれからの希望を綴ることになったようだ。
私の考えとしては「人生に結論はない」というのが信条である。「未完の完」という立場をとっているから、総括といっても答えのようなものは出てこない。“人生、常に途上”である。

絵を描きながら道の途中で野ざらしになる宿命かも知れないが、出来ることなら北欧にアトリエを持って絵本を描きながら人生を終えたいなどと夢想している。 

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私にとっての究極の理想は、チベットの寺院を砂絵で飾る僧侶のような絵心だ。
私はそれを「永遠の風塵」と呼んでいる。
時空を超え名をも惜しまぬ生命の存在を託した行為…そのような生き方が出来るなら、まさに宿命に沿った非の打ち所のない生涯と言えるだろう。

 

『絵を描くという生き様』~了>

 


絵を描くという生き様~芸術との相克 [人生描画譚]

 

人生を「絵を描く」という視点から眺めると、私にとって二十代の東京での生活がひとつのターニングポイントでもあったように思える。

十代の終わりに海外を放浪して日本に戻りデザイン学校に入った時には、すでに一般社会と常識感覚からはドロップアウトしてしまっていた。
この国の一般的な処世的考え方になかなか馴染めずいつも異邦人のような気分で生きていて、そしてついに家を出て東京に向かった。

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寝袋と現金5万円だけを持って、当時(昭和51年)まだ運行していた東京行き夜行列車に乗って故郷を後にした。
頼る宛ても金銭も無い私は野宿生活をしながら、とにかく食ってゆくための仕事探しから始めることは覚悟していた。

住み込み食事付きの仕事をしながらまとまった金額をたくわえて、とりあえず四畳半ひと間、洗い場トイレ共同という下宿先に落ち着いたのは半年先の事だった。
そしてその後も、仕事を転々としながらも何とか絵を描く生活が出来るようにならないかという葛藤の日々が続いた。
当時はフリーターという言葉も派遣という認識もない時代だから、仕事を転々と変わるという生活は地に足の着かない社会の逸脱者と見られていて、世間がそんなふうに見るものだから自分自身でも“オレは異端児なんだ”という気持ちにさせられていた。

          ☆

いわゆる社会の底辺、世間の裏側で働いているとそれはもう話題には事欠かない程の経験をするが、話が脱線しがちな自分を抑えて、ここでは飽くまでも“絵を描く生き様”というテーマに絞り込みます。(^^ゞ

デッサンをしっかりやろうと思ってデッサン教室に通ったり、時には友人の紹介でラブホテルの部屋に飾る絵を描いて生活費を得たり(私の好きなように描かせてくれるオーナーで、メルヘンタッチの童画でも採用してもらえたのは幸いでした)
アルバイトで働いている時間以外は絵ばっかり描いていて、私の人生の中で一番絵を描いていた時代だったように思える。

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絵を描いて生活していると言えば、なんと羨ましいなどと言われそうだが、その反面で実は一番苦しい時代でもあった。
それは経済的に苦しかったと同時に、自己のアイデンティティとの相克の日々でもあったからだ。

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私は家族や親戚からの影響もあって幼い頃から芸術活動に憧れる一方、それが平凡な人生を狂わせる危険性のある生き方のようにも考えていた。
祖父も父親も芸術的素養のある人だったが、私に少なからず影響を与えた父親は自身が過酷で不運な人生を経て来ているため、“もののあわれ”をベースにしたペシミスト的傾向が強かった。
時代背景が大きく影響してもいるが、例えば絵画では佐伯祐三、青木繁やモジリアーニ、ゴッホ。文学では石川啄木や中原中也などに傾倒していた時期で、生活苦の中で命を削りながら崇高なものを求める葛藤こそ真の芸術だ、などと私自身も時代的なステレオタイプに観念を縛り付けられていたのが正直なところだった。

芸術に商業的要素が認められなくて、社会的な認知を得るにはパトロンを得なければ成り立たない時代、いまでは考えられない程に自立性を打ち立てられていない時代だったから、寄生できない芸術家は必然的に生活苦と闘わざるを得なかったのも事実だった。

そんな事が痛いほど分かっていて、誰が好き好んで過酷な生活を選ぶだろうか。

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それでも若気の至りで、勇猛果敢に飛び込んで中途半端に玉砕をしたというのが私の芸術活動だった。

今こうして振り返ってみれば、時には傲慢不遜な態度で生きていた時代であった事を自覚してしまう。
またそれと同時に、
芸術というものに対しては、たくさんの“挫折と裏切りと妥協”をしてきたとも思う。

何ひとつ“やり遂げた”という思いも無く、このままで終わってしまうのか…とさえ感じていた私の人生における芸術に対する感想だったが…
何もかも無くなったと思った時に、本当に必要なものが見つかるものなのだ。

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反省すべき事は山ほどあるが、とにかく何とか還暦まで生きてこられた人生。
もうこれでお仕舞かと思っていたのに、また絵を描くことを始めたいと思うようになった。
今度は還暦を過ぎて、赤子のような“赤心”を持つ身として絵に対峙したいと考えるようになった。 

私にとって絵を描く人生とは、「人生それ自体の眼目であり、それを知り語るための過程でもあった」

 

 

▼「もうこんな処まで来てしまった」/1979年 
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絵を描くという生き様~落描きから漫画へ [人生描画譚]

 

一休さんが子供時代に悪さをして柱に縛られたまま、足の指を使って涙でネズミの絵を描いたという逸話を読んだのは幼い頃の思い出だ。

私の「絵描き人生」は、他所の家庭で勧められて描いた“馬の絵”が始まりだったと記憶している。
その頃の私は、両親が毎日の行商で手をかけられないものだから、当時よく見られた一般家庭に託児される幼児として他人の家庭で過ごしていたのだが… 

午後のひと時だったように覚えている。わら半紙のようなものに描かれていた一頭の馬の絵を見て、私の世話をしてくれていた若奥さんが「あら、お絵描き上手ね~」と感心してくれた。

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有頂天になった幼い私は、早晩自宅に引き取られてからも両親の目の前で馬の絵を描いては得意げになっていたものだ。
子どもにとって何かの得意技が出来るという事は、それはもう天下を取ったようなもので、それ以後の私は紙の切れ端を見つけると何かと落書きを描いていたらしい。

私の父は映画が大好きで幼い私をよく割引のナイトショーに連れて行ってくれたせいか、そして歳の離れた姉が映画女優志望で俳優の付き人をしたり、「大映」の所属で撮影所に務めていたせいもあって、
私は幼いころから邦画洋画を問わず、同世代の子供としてはかなりの数の映画を鑑賞していたようで、この原体験が私の絵心を培ったように思える。

私の絵心とは、つまり物語性の事である。
生き物を描いても風景を描いても、そこに何らかの物語性を求めてしまう…というか、独りよがりかも知れないが感受性のようなものが発揮されてしまうのだ。描き手でもあるのに鑑賞者でもあるというふたつの立場に引き裂かれてしまう。

         ☆

絵を描くことの楽しみを知った私のそれからは、部屋の隅で夢中になって落書き三昧の日々だった。
そして近くに貸本屋があった事もあり、毎日のように漫画を借りては読んでいたのだが、自然とそれに影響されて自分でも描いてみたいと思うようになっていったらしい。

絵の模写は苦手だったが、物語は好きな映画や漫画の中から真似をして描いていた。
小学校に行くようになり高学年になる頃にはすっかり評判になっていて、クラス中で回し読みする読者がいて隣のクラスからも借りに来る者もいた。いつの間にか教師の間にも伝わって学校中で知られるところとなり、学校新聞や行事のポスターなどは私が一手に引き受けるというような立場になっていったのだった。

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人を喜ばせ人から待ち遠しくされる事がこんなにも楽しい事だと知って、漫画に飽き足らずに落語寄席やパーティー・イベントのようなものまで開催する、興行師みたいな小学生になっていった(苦笑)
只の落書きから人を楽しませる漫画を創作していったことは、孤独な環境にいた幼年時代の私が周りの人々と繋がる貴重な体験だったように思える。

          ☆

中学生になると漫画を描くことよりもっと面白いことに次々と出会って、その内に趣味のひとつとして置き去りになっていたのだが、
中二の夏に一度だけ何を思ったか、メジャー出版社に投稿をした事があった。

当時はまだビッグコミックや少年ジャンプなどは発行されていない時代で、「COM」と「ガロ」という二大雑誌が若者漫画のバイブルだった。
青林堂伝説の編集長・長井勝一氏が発行していた「ガロ」 に憧れて、いかにもそこにマッチした画風の作品を投稿したのだが、まだまだ稚拙だった私は甘さを酷評されるのみだった。

 

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▲ 初めて雑誌に投稿した漫画

 

その後、中学を卒業し高校生になってゆくのだが、学生時代に描いた絵の殆どは日記やポエムに添えるイラストやカットばかり描いていた。
それはやはり思春期の悩み多き恋心に捕らわれていたせいだろうか。今読み返してみると赤面するほど恥ずかしいイラストで埋められている。

学生時代には学校の課題で県のコンペに応募したキャンペーン・ポスターなど数々が賞を取ったりして認められ、漫画よりもデザイン・イラストの方に興味を向ける事になっていった。
しかしそれが後に起こる様々な出来事と絡み合って、私が18歳で海外に出て北欧のデザイン学校入学をめざす人生の一大転機になってゆこうとはまさか思ってもみない事だった。

 

 


絵を描くという生き様~雑誌に連載する [人生描画譚]

 

これまでの人生の流れを「絵を描く」という視点に限って眺めると、それはそれで面白い発見があったりもする。

結局は画家・芸術家になったわけでも無し、それほど一途に邁進して来たわけでも無いけれど
絵を描く事が自分の生き方や考え方に影響を及ぼし続けて来たことは事実だと思う。 

         ☆

原点である幼少期の考察は後に回すとして、社会に出てからの「絵」との関わりは紆余曲折だったと言える。

小学生の頃から「大きくなったら漫画家になりたいです」と言っていて、担任の先生や周りの同級生たちからも将来は漫画の道を目指すように思われていたが、成長すると共にイラストレーターやグラフィックデザイナー志向に変わっていった。

そんな私が漫画を雑誌に連載した事は、今から振り返ってみれば私の思考を変える大きな転機だったように思える。 

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とある風俗雑誌から漫画の連載を依頼されたのは、私の生活が経済的に破綻してどうしようもない状態になっていた頃であった。
何でもいいから収入になれば良いという気持ちと、一度漫画を描いて原稿料をいただくという子どもの頃のささやかな願望を経験してみたいという思いがあって引き受けたのが始まりだった。

         ☆

気楽に始めた月にたった1頁の連載漫画だったが思った以上に苦労した。しかしこの経験がこれまで私が越えられなかった壁を越えるキッカケになった。
その後、イラストやカット、挿し絵など色々なスタイルで絵を描く仕事が入って来たが、様々な制約の中で描かねばならない事が自由にやって来た私にはとても為になった。 

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振り返ってみれば、ある種の武者修行だったように思える。時期は中年の盛りも過ぎた頃だったが、人はいくつになっても、挑戦をする限りは若輩者である。
絵を描くという視点でみれば、自分の描きたくないもの・苦手なもの・避けてきたものを自分の意思で積極的に取り組んでゆくという、いい歳をして自分の殻を破るブレイクスルーでもあった。

二十代の頃は絵本を作りたいなんて思っていた事もあって、一時期はメルヘンタッチの画風だったのに…(丁度、サンリオが文具でハローキティやマイメロディを売り出していた頃だった)まさかその数十年後にエロい漫画を描こうとは思ってもみなかったが、これが人生というものなんですね。

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漫画や挿し絵を連載する生活は、絵を描くことを商業的に成り立たせるための覚悟のようなものを学ぶ経験になった。それはアマチュアリズムを捨て去る厳しい意識を持つことだった。

世間一般にでも甘い意識で生きている人は多くいる。私も例外ではないが、やはり真剣に何かと対峙するときには人は厳しさを飲み込む覚悟をせねばならないという、一種の処世訓を得たように思えた。


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