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'71年~'73年、貧乏旅行の就労事情 [青年は荒野をめざした/番外編]

'71年から'73年の二年数ヵ月の間、ヨーロッパ諸国と北アフリカをヒッチハイクで廻って得た様々な体験は当時としてはとてもユニークなものだった。
日本を発った当初はアルバイトをしながら現地でデザインを学ぶという崇高な(?)目的があったのだがいつの間にか海外数ヵ国の諸都市で働くボヘミアンとなっていた。

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海外で働いていた事はそれなりに面白い経験として私のその後の生き方にも影響を及ぼした。その影響については別の機会に廻すとして、ここではルポ風に記憶を辿ってみたい。
ロンドンでのアルバイト・エピソードは拙ブログ「青年は荒野をめざした~ロンドン編」でも触れています)

旧ソ連のシベリア経由でヨーロッパに到着して三日後にはアルバイト探しを始めていた。物価の高いスウェーデンだったから日に日に目減りしてゆく所持金を心配しながら仕事探しに追われる毎日だったが、日本を出発する前に得ていた現地アルバイト情報がまったく当てにならないと知ったときには目の前が真っ暗になったような気持だった。


期待と失望の繰り返しで国から国を転々とした結果いくつかの都市で就業の経験をしたのだが、オーナーがユダヤ系であったり華僑であったりそれぞれの国民性や人種の様相を反映していて興味深い体験でもあった。
イギリスでは正式な労働許可を取って働いているわけではなくいわゆるモグリの不良就労外国人という身分だったので、ポリスが見回りに来ると店のオーナーがキッチンや倉庫の裏に身を隠してくれた。万一見つかりでもすれば運賃自己負担の強制送還で日本に帰されてしまうのでこちらとしても必死の逃亡者気分だった。
就労ビザを取得していない者は当時は滞在が3ヵ月と限られていたが、外国人向け語学学校に籍を置いていた私は何とか更新を許可してもらえた。この許可が下りないと一旦国外に出てまた入国するという怪しげな方法を取らざるを得なくなる。

時代が半世紀も前の話しだから今では考えられないような事が常識だったり他愛もないことが困難だったりもした。世界は米ソ冷戦の真っ最中で、日本赤軍も暗躍していた時代。海外での日本人の評価はミステリアスな存在で好奇心はあったがまだまだ低いものだった。

ロンドン公園にて.jpg

'70年代のヨーロッパでは北欧はアルバイト天国というのがもっぱらの評判だった。北欧では夏になるとサマーホリデーとしてほとんどの人が一ヵ月ほどの休暇を取るために商業施設では人手が足りないという事情があり、ドイツやイタリアなど近隣諸国から多くの若者たちがアルバイトに来ていた。北欧の中でも一番人気だったのはスウェーデンで、賃金も他の諸国と比べて高いうえに一緒に働くスウェーデン人の女学生が美人ばっかりだったのでイタリア人などはガールハント目的で就業に来ているものも多かった。
女性が絡むと男たちの世界ではどうしてもいざこざが起こる。小遣い稼ぎで働きに来ている筈なのがいつの間にかマドンナの争奪戦となって民族意識丸出しの争いに発展する事もしばしばだった。目的は美女をゲットする事なのだが、ドイツ人ならドイツ人同士、アメリカ人ならアメリカ人同士、もちろん日本人も日本人同士でそれぞれのお国意識で固まって応戦することになる。スウェーデン、フィンランドは当時求人も多くお金を稼ぐには最適と言われていたが、外国人労働者同士のいざこざが絶えなくて社会問題視されることも少なくなかった。

HELSINKI_HOTEL.jpg

それぞれの国に数週間から数ヵ月、ヒッチハイクでの流れ旅ではあるけれど気に入った街にはどうしても腰を下ろしてしまう。旅をする事も好きだったが、本来は生活をすることが目的で海を渡って来た。そこで生活をするということは当然その土地で働くわけなのだが、じゃあ何のために働いているのかと考えると時々分からなくなってしまう事があった。

ロンドンではホテル洗い場、サンドイッチ・バー、パン職人の店、ヘルシンキではレストラン、ホテルラウンジ、コペンハーゲンではチャイニーズ・レストラン…ひとつずつ数えてみるとその国のネイティブに就いたのはヘルシンキのレストランやホテルで働いたときのみだと気がついた。
イギリスではドイツ人シェフ、ユダヤ人オーナーとイタリア人のパン職人。デンマークでは中国人オーナーにそれぞれ就いて働いた。仕事ぶりや指示の仕方も見事なくらい異なっていて各国の文化的素養の違いを感じたものだった。

海外で働いて感じた事は「働く意識も国民性によって全く異なっている」という事だった。当時日本では「モーレツからビューティフルへ」というキャンペーンもあって、それまでがむしゃらに働いてきた労働意識を変えようという時期だったが、懸命に働いている国は決して日本ばかりでもなければその国の労働意識の高さからくるものではなく、国民の生活水準の問題である事に気づかされた。
当時は“日本人は勤勉でよく働く”という評価を自画自賛していたが、滅私奉公で従属的に働く感性は決して日本人の美意識からくるものではなく、それは社会構造という現実的な政治の問題でもあった。

 

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'71年~'73年、貧乏旅行の食卓事情 [青年は荒野をめざした/番外編]

 情報価値としては殆ど意味も無いような過去のヨーロッパ放浪記事を、スピンオフとして書いているのは自身の通過して来た経験を年月を経た視点から再検証するためでもある。


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'71年から'73年の二年数ヵ月の間、ヨーロッパ諸国と北アフリカをヒッチハイクで廻って得た様々な体験は当時としてはとてもユニークなものだった。
残念な事は、当時の記録としての写真が殆ど残っていない事。現在のようにデジタルカメラも無かった時代で、いちいち現地で現像してプリントするのが億劫だったしコストもかかった。何度かネガをまとめて日本に送り、実家でDPTに出してもらったりしていたが、現像前の貴重なネガを盗難に遭って紛失してしまった。
所持金を全て盗まれてしまったことは勿論ショックだったが、それ以上に写真を始めとする日記やメモなど諸々の記録物を失った事が残念でならなかった。
(※ちなみに持っていたカメラはリコーオートハーフという小型カメラで、一眼レフのように綺麗な画像は撮れないレベルでした)


Ricoh_オートハーフ.jpg
 ▲昭和40年代に活躍した懐かしのハーフサイズカメラ「Richo auto half」


生活してゆく事に必死だったからのんびりとグルメを味わう余裕もなかったことは残念で心残りだった事のひとつでもある。ヒッチハイクで訪れた各国の街々では印象深い時間を過ごしたが、残念ながらグルメレポートとして記せるようなメニューや記事は見つからない。
思い返してみれば2年あまりの海外生活の中で一番豪華な食事だったのは出国して日にちの浅い旧ソ連・モスクワのホテルで取ったディナーくらいのものだった。
まるで宮殿の晩餐会の様な雰囲気の中、天井は満開のシャンデリアに覆われてテーブルには食べ放題のキャビアやビーフストロガノフが盛られた贅沢な食事のひと時で、後から振り返ってみれば高価なキャビアをもっと味わっておけば良かったと悔やまれた。



ヒッチハイクで訪れた街々ではその土地の名物料理などを味わう事もあったが、就労しながら暮らしていた国では生活感あふれる食生活を送っていた。
例えばイギリス/ロンドンではかの有名なフィッシュ&チップスを連日のようにテイクアウトで夕食のメニューにしていた。それでも時々米の飯が恋しくなるとロンドンは当時から国際色豊かな食材が手に入る国だったのでアジアンテイストに困る事は無かった。
’70年代のヨーロッパはEU連合になる以前でインターネットの普及もない世界はボーダーレスには程遠い時代だったが、ロンドンやアムステルダム、コペンハーゲンといった自由貿易の国々ではインドカレーの店や中華飯店が比較的多くてよく利用したものだった。


フィンランド/ヘルシンキで暮らしていた頃に生まれて初めて自炊を経験した。日本を飛び出して来たのは社会人になる前だったから当然独り暮らしも経験無く、今様の若者とは違って炊事・洗濯といった家事はからっきし駄目だったが、そんな私が家計簿をつけたり献立を考えたりするのだから旅は人を成長させるものだとつくづく思う。
とは言うもののヘルシンキでの食卓は殆ど毎日が「野菜炒めとスープに焼き飯」の連続だった。一日二食はバイト先の賄い食でやり過ごせたので面倒な自炊は一日一回で済んだが、それでも炊事が面倒だった私は一度に3~4日分ほど飯を炊いておいて冷蔵保管してその都度焼き飯にしていたという具合だった。


持ち帰りのフィッシュ&チップスやスプリングロール、職場の賄い食や焼き飯&野菜炒めといった自炊の定番etc.の他に、デンマーク/コペンハーゲンでバイトをしていた頃は下宿先に戻るとホットプレスのサンドをよく作っていた。
一時期ロンドンのサンドウィッチバーでアルバイトしていた時にマスターした手づくりサンドのバリエーションで、チーズが餅の様な感触ですっかり私のお気に入りメニューとなっていた。当時はまだ日本の一般家庭ではホットプレス器は普及していなくてチーズやハムを挟んでプレスするホットサンドを味わう人は少なかった時代だった。(とろけるスライスチーズもまだ販売されていなかったように記憶している)


欧州旅日記.jpg


思い起こしてみると、海外で生活しているというのに食生活は貧弱なものだったと痛感する。惜しい事をしたようにも思えるが、もともと観光旅行に来たわけでも無くて少し大袈裟に言えば“生きてゆくことに精一杯の生活”だったので食の楽しみを味わう余裕も無くて当然と納得してしまう。
しかし本当のところを言えば、ひとつひとつの食事のその時の旨さを今でも覚えていて、それらの温かみ匂いがかけがえの無い美味しさだったようにも思える。


確かに一流レストラン・一流シェフの絶品とはかけ離れたものだが、まさしく日常のリアルなテイストであった事には違いない。


 


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'71年~'73年、貧乏旅行の宿泊事情 [青年は荒野をめざした/番外編]

[前置き] 情報価値としては殆ど意味も無いような過去のヨーロッパ放浪記事を、スピンオフとして書いているのは自身の体験を年月を経た視点から再検証するためでもあります。

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'71年から'73年の2年2ヵ月ほどの間、期待に胸奮わせたり失望に打ちひしがれたりしながら北欧から北アフリカまで地図の無い旅を続けていた。
サハラ砂漠近くのヒッチでは丸一日のあいだ車を待った時もあった。また、お金が無くて野宿で過ごしたことも一度や二度ではなかった。
当時は世界中から若者たちがバックパッキング、無銭旅行というスタイルで異国を放浪する事が若者文化の流行りでもあって、そのための宿泊施設も今と比べてとても豊富なバリエーションが揃っていたように思う。

私が初めて簡易宿泊所に泊まったのは日本を出てまだ2週間足らずで、スウェーデン・ストックホルムの街に滞在した時だった。
臨時のアルバイト探しのために滞在していたのだが、ガイドブックに紹介されていた中世風の街並み「ガムラスタン(旧市街)」界隈の宿泊所を探し当てて飛び込んでみたら、なんとそこは『サルベーション・アーミー(救世軍)』という浮浪者専用の様な宿泊所だった。
フロントで薄汚れた毛布を一枚受け取って奥に向かうと、そこは二段ベッドがびっしりと並んでいるだけの殺風景な大部屋(タコ部屋)で、周りをよく見ると各国から流れて来たヒッチハイカー達とは別に地元の酔っ払いや失業者といった宿無したちが3割ほどだった。
その後も各地で劣悪な宿泊状況を経験してきたが、ヨーロッパの地に足を踏み入れた最初から浮浪者たちとの宿泊の洗礼を受けたことは環境に順応出来るメンタリティを作ってくれたようにも思える。

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 ▲ストックホルム/湾岸エリアの億に「ガムラスタン」という中世風の地域がある。

スウェーデンでのタコ部屋はまだ屋根があるから良い方で、デンマークでは軍隊のキャンプ場のようなテントだけの粗末な宿泊施設で数日間寝泊まりしていた。
実際に並んでいるテントはカーキ色のアーミー色一辺倒で、少し離れたところに共同のトイレやシャワーが並んでいる。朝のラッシュアワーには長い列の出来るほどなのだが、意外とみんなマナーが良く割り込みや喧嘩など見たことは無かった。まさに軍隊の様な規律正しい宿泊施設だった。
考えてみれば、若者たちのほとんどは徴兵制度のある国から来ていて軍隊様式の生活は慣れっこになっている。寝袋をベッドに粗末なシャワーや共同トイレの集団生活にもまったく不快感はなさそうだった。
'70年代当時は世界の若者たちの間で「コミューン思想」というものが流行っていて、ヒッピーから発展したフラワーチルドレンやドロップアウターたちの共同生活は一種のファッションでもあったようだ。

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 ▲デンマーク/コペンハーゲン「チボリ遊園地」

Salvation Army の安宿やテント生活で過ごした後にも、北アフリカのチュニジア、アルジェリア、モロッコを渡るヒッチハイクでは窮乏の宿泊体験が続いた。
アラブ諸国のホテルには独特のエキゾチックな雰囲気があって“不思議大好きな好奇心男”にはたまらない魅惑の世界だった。
しかしどんな場合でも現地人向けの宿泊所を利用していたので、トイレのみ風呂なしでシャワーは共同といった簡易なつくりの部屋ばかりだったが部屋の壁や床のタイルはアラビア風幾何学模様でイスラム文化の香りを満喫出来た。フランス映画「望郷」の舞台となったアルジェのカスバの雰囲気そのままの安宿体験だった。

宿泊施設というものもそれぞれお国事情を表わしていて面白い。
スペインでは個人の住まいの一部を提供してくれるペンション(民宿)を利用していたが、あるペンションではそこの家族の娘が大の日本人贔屓(びいき)で、二泊ほどしただけなのだが毎晩私の部屋へやって来ては好奇の目で眺めて色っぽくすり寄って来たりして困った事もあった。スペイン語は分からなかったが、どうやら「日本に行きたい。連れて行ってくれ」という意味の事を言っているようでその情熱的なアプローチから逃げるのが精一杯だった。

当時のスペインやイタリアといったカトリック系の国では女性と肉体関係を持つと結婚しなければならない義務があって“それを守らないと一族の長から命を狙われる”なんて言う噂が私たち外国人ヒッチハイカーの間では通説だったのだ。
このカトリック系の倫理観は今でも健在なのだろうか?あれから四十数年経った今ではすっかり変わっている事だろう。

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 ▲ソ連時代のモスクワで泊まったエコノミークラスの部屋。とても殺風景な部屋だった。

 


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'72年4月、スペイン満喫の日々 [青年は荒野をめざした/番外編]

 

北アフリカの旅から欧州本土に戻って来たのは四月の春のことだった。
モロッコ北端の街・タンジールから海峡を越えれば数時間でスペインのマラガに着いた。

マドリッドは最高に楽しく生活を享受できた街だった。
あまりの心地良さにほんの4,5日のつもりが、つい2ヵ月も住み付いてしまった。
安価なペンションで下宿生活を続けていると、旅人であることを忘れてマドリッドの住人のような気分になる。

街にいる時は、ほとんど連日プラド美術館で過ごしていた。特にルーベンスの絵画に触発されて美術館通いをすることになろうとは考えてもみなかった。
また時には3,000kmまで乗り放題という鉄道チケットでスペインの国内を思いのままに訪れたこともあった。
一ヵ月近くかけて気持ちの趣くままに、郊外のトレドをはじめアビラやコルドバなど城壁の街を訪れてとてもいい旅三昧だった。

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 ▲アビラ城壁(上)、コルドバ市街(下)~スペイン観光協会パンフレットより転載

マドリッドのペンションに戻ってくると馴染みのおばさんが以前と同じ部屋を用意して迎えてくれた。
隣りの部屋には別の日本人が泊まっていて、親しく話を交わすようになった。
彼はアメリカから渡ってきた長髪に髭のヒッピースタイルのジャーナリストで、一ヵ月ほどアメリカをヒッチハイクした後に現地ルポを日本の雑誌「平凡パンチ」に送っていた。大西洋を渡って今はスペインでヨーロッパ紀行の準備をしているところらしかった。

昼間のプラド美術館通いを終えると夕飯を待つ間にこの隣人とよく会談をしていたが、ある日彼が持っていた「ハシシ」(※大麻・マリファナの類い)を勧められて体験する事となった。
その頃の私はまだ未成年でタバコも習慣になっていなかったがハシシにむせることもなく、彼の持っていた吸引パイプですんなりと馴染んでしまった。
ハシシはLSDやコカインなどとは違って薬害中毒になるようなものではないらしく(但しアタマは少しばかり酒に酔った状態のように浮いた感じになるようだ)2週間ほど瞑想状態に入っていたが何ら問題もなかった…ように思った。

マドリッドでのハシシによるトリップ体験は単に気分の良いハイな感覚というだけで、決して怪しく危険な薬物というようなものではなかった。
勿論のこと、私はドラッグや薬物を推奨するものではないが率直に言えば若い頃は何に対しても好奇心があって、また社会的常識を超えて体験を通して語る“実践主義”だったので社会通念の是か非かを気にしないところがあった。

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 ▲連日のように通ったプラド美術館。ルーブルやエルミタージュと比べると小じんまりしているがコレクションは充実。 

ドラッグ体験を正直に言ってしまえば、それは飲酒で開放感を得るのと何ら変わりはないのだが、ある種の陶酔の境地に入ることで感性は制約の枠を越えて、常識的価値観を逸脱した自由で開放的な感覚になる。多くのクリエーターたちが創作の源にドラッグ体験に興味を持つことも肯ける気がする。
しかし、その自由奔放で社会通念や規則管理を無視してしまう創作活動が、アナーキーで犯罪的な側面を持ち、時として社会権力に対抗する義賊のような偶像性を生み出す。そして多分この事が社会を管理するポリティカル・パワーからすれば厄介なものなのだろう。
(それにしても、著名な芸術家や創作家の多くが一度や二度はドラッグ体験をしているなどという話しは周知の事実として暗黙の了解となっているんですね。)

実は私がプラド美術館に通いルーベンスの絵に魅入っていたのはハシシの影響が少なからずあるように思う。
色々とカルチャー・ショックを与えてくれた隣人だったが、ある日持っていた一冊の文庫本を薦めてくれた。大江健三郎の『万延元年のフットボール』という難解な長編だったが、彼曰く「ハシシをやりながら哲学書や難解な物語を読むと、不思議と脳が活性化して思考力が拡がりその世界を理解することが出来る」…
理解が出来ているのかどうかは分からないが、難しい文章を読んでいても全然苦痛ではない事は確かだった。たぶんこれはハシシというものが、脳に対して思考することに対して苦労を与えないような働きがあるためだろう。とにかく気持ちの良いくらいの理解力で頭にスースーと入ってゆく感覚だった。
 

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 ▲ペンション屋上のテラスにて(当時19歳の私) 

スペインは当時フランコ将軍の独裁政権で街中いたる所に秘密警察がウヨウヨしていた。
独裁政権の国なんてものがあまりピンと来ない日本の若者だったのでお気楽に観光していた私だったが、或るアメリカ人がとんでもないトラブルに遭って私も他人事でなくゾッとした事があった。

マドリッドにも蚤の市があって、ヒッチハイカーたちも旅の資金稼ぎのためにちょっとした土産物を並べて売りさばいたりする事があったのだが、
そのアメリカ人はたまたま持っていた赤い表紙の『毛沢東語録手帳』のレプリカを並べて売ろうとしていたようで、文化大革命後の中国共産党員が持つ記念品として高値がつくと思ったのだろうか極右のフランコ政権の国である事をまったく気にもしていなかったのだ。…大らかで気の利かないアメリカ人らしい(笑)
国家を揺るがす思想犯として極秘逮捕からそのまま投獄され、日本では考えられないような独裁国家の事情で駐在の大使館に連絡が入ってから救い出されるまで数ヵ月も牢屋に入っていたらしい。

太陽と情熱の国というキャッチフレーズで“明るく楽天的な国民性”というふうに理解していた当時のスペインで、政治の意外な影の部分を見たようだった。 

 


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'72年6月、北に向かう~北帰考 [青年は荒野をめざした/番外編]

 

'72年・初夏。私は迷いながらヒッチハイクを続けていた。
アルバイト先を見つけてこの先もヨーロッパでの放浪生活を続けるのか?」それとも「当初の目的は果たせなかったが、見切りをつけて帰国して日本のデザイン学校に入って勉強をするのか?」
そういった自問自答を続けながら、スイスからドイツを経て北欧に向かってのヒッチハイクの日々だった。

北アフリカ・アラブ諸国でのヒッチハイクやスペインやオランダでのドラッグ体験という、シッチャカメッチャカ体験はして来たものの、まだ日本を出てから一年余りの新参者だった私はまだまだ海外生活の経験も乏しく、とてもこんな中途半端な状態で帰国する気にもなれなかった。
デンマークやノルウェーなど北欧のユースホステルに働き口の打診をしながら(当時はメールなど無かったから郵送で、返信は先に滞在予定のユースホステル宛てにしていた)、パンと牛乳の食事でお金を切り詰めながら文字通りの貧乏旅行で、豊かな気分で観光など出来る余裕はなかった。

チューリッヒ風景.jpg
 ▲スイス・チューリッヒの風景 (絵葉書より) 

そんな時に起こったのが『テルアビブ事件』だった。
日本赤軍の一人、岡本公三によるイスラエル・テルアビブ空港での無差別乱射事件。日本人が外国で起こした最大級のテロ事件としてその反響は海外に暮らす同胞にとっては大変なものだった。
背中にリュックを担いで薄汚いジーンズに無精ヒゲの様相で放浪している私などは最も怪しまれる対象で、これまでヒッチハイク中に一度も無かった国境での厳しいチェックを初めて受けるようなこともあった。
この2ヵ月ほど前はアラブ諸国をヒッチしていてパスポートには入国ビザの印があったから余計に疑われたのかも知れない。リュックの中の下着から胃腸薬の類いまで全部放り出して調べられた。
(※余談だが医薬品に関して、後に北欧に暮らしていた時に風邪薬を他の荷物と一緒に梱包して日本から送ってもらった際、税関の許可証が添付されていなかったために薬物違法持ち込みに引っかかって全部捨てさせられた事があった)

以前に真夜中のヒッチハイクで、ワーゲンのボックス車にイタリア、フランス、アメリカのハイカー達が乗り込んで国境を越えたことがあった。国境の警備員が自動小銃を構える中を国際色豊かな面々が通過する様はまるでスパイ大作戦のドラマのようなスリルがあったが(別に何も悪い事をしていないのだけど…)今回は実際に起きた乱射テロ事件の後だったので緊張感は全く違っていた。

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 ▲ドイツ・ケルンの風景 (絵葉書より) 

この頃、日本では「よど号ハイジャック事件」に次ぎ「あさま山荘事件」など日本赤軍による破壊活動が頻繁に起こり、国家公安はかつての東大紛争や70年安保などに関わった学生運動家リストをもとに不審者をしらみつぶしに探していた。
そんな状況の中で、高校を退学して海外を放浪している私などは当時としては珍しい部類らしく、どうやら何らかの形でマークされていたらしい。

後日、親から聞いた話によると、突然に警視庁公安から二人の刑事がやってきて色々と聴収して行ったらしい。
「息子さんは今どこにいるのですか?」「政治的な信条は?何か活動をしていませんか?」「海外では何をしているのですか?」といった事を細かく聞かれて、身がすくむ思いだったと言っていた。
それは確かにそうでしょうね。子どもが海外に居て、今何処で何をしているのかもさっぱり分からないのに、テロ事件の参考人であるかのようにわざわざ警視庁からやって来て質問攻めをするのですから、たまったもんじゃありません(笑)
私はこの頃から自分の個人データは完全に国家に掌握されていると自覚しました。40年以上も前の話しです。

さて、本当なら海外で働きながらデザイン学校に通学して、今風に言うならグローバルなキャリアを磨いて凱旋帰国する筈が…いつの間にか日々の飯にも困る放浪のボヘミアンになってしまった。
でも正直言って心の奥底では、こんな生き方をしてみる事に少しの好奇心のあったことも確かだった。
国を発つ時に友人たちから「大学進学も棒に振って何でわざわざそんな苦境に向かうのか?」と嘲笑まじりの言葉を受けたものだったが、還暦も過ぎた今確信できることは“これが私の生き方だったのだ”ということだろうか。
何はともあれ、私の1972年は異国で職を求めてひたすら北に向かう青春の日々だった。

 


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'72年5月、アムステルダムの裏側 [青年は荒野をめざした/番外編]

 

ヨーロッパの国々をヒッチハイク放浪の旅を続けていたが、オランダの国際都市アムステルダムは気に入った街のひとつだった。
差別のない自由な空気が流れていて物価も安く、私のような流れ者や異邦人にとって住み心地の良さは抜群だった。

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 ▲アムステルダム中央駅

かつては国際貿易都市だったという歴史もあって、交易の門戸を開いた自由な空気が漂っている。
ロンドンの下町でもよく目にしたが、アムステルダムでもインドカレーの店や中華飯店が多く目についた。
何かと暮らしやすい街でユースホステルも長期滞在が許されていたので気がついたら一ヵ月近くも滞在していた。
別にこれと言ってすることもなく街中をブラブラ歩いたり、たまに市外に出てロッテルダムのチューリップ公園を眺めたりの毎日だったがまったく飽きることがなかった。

オランダ写真.jpg 

チューリップや風車で有名なオランダと言えば、のどかで平和な田園風景を思い浮かべるようだが、そういったメルヘンチックな面もある半面、首都アムステルダムには怪しげな無法地帯が存在していた。
街中に運河が流れていてそこに船上生活する人も多い。昼間はのどかな情緒ある風景で、日本では「倉敷」や「小樽」によく例えられていたが、夕闇せまる頃になると川面には赤い灯青い灯の艶めかしく妖しげな風情に変わる。

アムステルダムの「飾り窓」は、ドイツ・ハンブルグの「レパーバーン」に並ぶヨーロッパ屈指の風俗エリアだった。
'70年代当時の日本では、戦後の赤線はすでに廃止され売春業は違法として取り締まられていたが、風俗業という概念やソープランドという言葉はまだ無くて「売春」や「トルコ風呂」という呼び名が通称だった時代だ。
ヨーロッパ旅行のガイドブックには北欧スウェーデンのフリーセックスと並んで、オランダの飾り窓が男性の旅の楽しみスポットとして紹介されていた。

かつては国際的な交易都市だったこともあって、多彩な人種による多国籍都市である側面に気づく。
そう言えばアメリカ合衆国・ニューヨークの前身は「ニューアムステルダム」という地名で十六世紀に入植したオランダ人によって名付けられたものらしく、イギリスが七つの海を支配する以前はオランダが世界の自由貿易の盟主国でもあった事を思い出す。
この街の自由な活気と無法地帯のいかがわしさは、そういったところから来るのだろう。

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一ヵ月も暮らしていると表側からは計り知れない街の裏の顔が見えてくる。
ユースホステルや簡易ホテルを転々としながら暮らしていると、時々怪しげな日本人に出会う事があった。
その男性は当時流行していたヒッピー風の長髪に黒のダークスーツといういで立ちでアタッシュケースを大事そうに持っていた。よく見ればケースは手錠のようなもので手首にしっかりと繋がれていた。
只ならぬ雰囲気なので周りの者からは興味の対象になっていたが、本人はいたってクールにビジネスマンを装っていた。

後に東京・青山や原宿など日本国内でも流行った「針金細工」があった。ヒッピー風のスタイルで路上にタペストリーを敷いて腰を下ろし、針金で作ったネックレスやブレスレッドなどを並べて売る商売がアメリカ西海岸のヒッピーからヨーロッパに流行して当時ヨーロッパの街々ではよく見受けられた。
その日本人もこの商売でひと山当てたらしく、各国を飛び回りながらヨーロッパ中の「針金細工売り」の元締めみたいな事をやってるらしかった。
こういった日本の若者たちの一部が海外でビジネスのネットワークを形成して、後に日本に逆輸入するという商売はよくあった。中にはヤクザ組織の舎弟が頭の言い付けで海外拠点づくりに来ているというケースもあって驚かされたものだった。

アムステルダムは小さな都市だが、ウイーンと並んで国際的な犯罪組織が蠢(うごめ)いている街だという事は日本ではあまり知られていなかった。
例えば、私が訪れる数週間前に日本の商社マンの死体が運河に浮かぶという事件があって大使館で日本の新聞を調べてみたが全く記事になっていなかった。
こんな事は日常茶飯事で当時は現在のように伝わる情報量が乏しかった事もあり、海外から見ると日本国内で発表されているニュースが全く違っている事もよくあった。

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 ▲一見のどかな風情の街なのだが… 

私がこのアムステルダムで遭遇した最大の事件はまるでアヘン窟のような“麻薬の巣”に足を踏み入れてしまった事だった。
最近はタイ、フィリピンといった東南アジア諸国に多くなっているが、40年も昔にはヤクザ組織から多くの組員がヨーロッパに出張に来ていて仕事は殆ど架空商社を通した薬物(ヤクブツ)の密輸。
そしてヤクザではなくても長期滞在の邦人ゴロツキが親しげに近づいてきて日本人旅行者をカモにするという事件も多くて注意が必要とは聞いていた。

ある日ユースで知り合った日本人旅行者・男女3人と街を散歩していたら、ここに住んでいるという長髪に髭面の日本人2人が近づいてきた。
私は海外に出て一年以上が過ぎた頃で物珍しさも少なくなっていた頃だったが、まだ日本を出てから日の浅かった女性たちはここに暮らしているという邦人の若者にすっかり興味を覚えてしまって、その晩開かれるという仲間たちのパーティに招かれる事となった。

夕食を済ませてすっかり夕闇に包まれた頃、アムス在住日本人のアパートに出掛けた。
入り口の扉を開けると昼間出会った男が現われて、細長い階段を後について上ってゆくように連れられて行った。
ドアを開けて言われるままに部屋の中に入ると、そこは薄暗くマリファナ・パーティ真っ最中のような怪しげな雰囲気で、女性二人を同伴の私は何となく危険な匂いを感じた。
同伴のもう一人の男性もまだ日本を発って日が浅く、海外の不良邦人の実態が掴めずピンと来ない様子だったので、この場は私が上手くやり過ごすしかなかった。

好奇心で来てしまった彼らのパーティをただの冷やかしで済まされる雰囲気ではなかったので、つかの間の交流をして切りを付ける事にした。
同伴の三人はせっかくの海外で何でも体験してみたいという事でほんのひと口だけマリファナを吸ったようだったが、私はほどほどで止めるように促して代わりに私が対応していた。
もう充分だという事にしてこの場を去りたかったのでタイミングを考えていたら、グリープのリーダーらしい輩からアヘンを勧められてしまった。
私はハイカー仲間から“LSDやアヘンは麻薬”と聞いていたので危ないと思いながらも、少しだけ好奇心もあって舌先で舐めてみたら、一瞬にして舌先から電気が走るような感覚でしびれた。
免疫力には自信があって平気だった私もさすがにこの時は度を越した危険を感じて、心底から「もう充分なのでこれで御いとまする」という言葉が出たものだった。

通りすがりで約一ヵ月ほど暮らしたオランダ・アムステルダムの街が、私にとって貴重な(?)唯一のドラッグ体験の地となったのだった。
(注※この以前にスペイン・マドリッドでペンション滞在の時にハシシを体験した事がありましたが、これはドラッグの範疇には入っていません)

 


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'71年8月 就活ヒッチハイク [青年は荒野をめざした/番外編]

 

いつの時代もマスコミの記事というものは事実に即していないものが多い。
単なる個人の主観や水増し表現で、うっかり鵜呑みにすると滑って転んで怪我をする。
現在の様にインターネットHPやSNSの普及で世界中の情報がリアルタイムで届き、また検証できる時代から比べると
当時は大変不便で間違いを確かめる事も難しく、あてにならないガイドブックも多く出版されていた。
売らんがために歪曲されたマスコミ情報本を私はこの頃から痛感したものだった。

帰国後に渡航経験のあるジャーナリストとして様々な雑誌や著書に登場して、北欧に詳しい論評家でもあり大学の助教授までなった人が居たが、彼の書いた本は80%がデタラメな内容だったという例もある。
“真に受けた私が馬鹿だった”と言ってしまえばそれまでなのだが、現地で仕事に就くつもりだった私にはストックホルムでは簡単にアルバイトに就けるとうような話を鵜呑みにしまっていた。
パリでは職業安定所の間違った住所を苦心しながら推理して、ようやく辿り着いたらそこは学生向けに夏季だけ開かれているアルバイト相談所だったといういい加減な情報だったり、とにかく就活には支障をきたしたものだった。

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 ▲一日10ドルの生活費のため移動手段はほとんどヒッチハイク 

時期的なタイミングの悪さもあってなかなか仕事に在り付けず、国から国へ放浪の「就活ヒッチハイク」が始まったのは日本を出てから2週間が過ぎた頃だった。
目算では既にアルバイトに就いて下宿先でも探している筈だったものが、まったく当て外れで残り所持金を気にしながら国から国への流れ者になっていようとは考えもしなかった。

雨にも風にも負けず郊外のハイウェイに立って行き交う車が止まってくれるのを待ち続ける。次の宿に着くまではリュックに押し込んだパンとミルクで一日の空腹を凌ぐ。
ちょっとしたサバイバル体験のようだが若かったせいか楽しく貴重な体験だった。お金がどんどん無くなってゆく心細さとスリルには辛いものがあったけれど…。
 

就職活動のためのヒッチハイクはフィンランド・ヘルシンキからスタートした。運が良ければデンマーク、ドイツあたりで仕事に在り付けるかも知れないし、悪くてもフランスに行けば知人が紹介してくれそうな話もあったので何とかなるだろうと思ったりもしたのだが、結局はドーバー海峡を渡って職探しのために大英帝国ロンドンにまで足を運ぶことになったのだった。

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 ▲ヘルシンキからツルクの間で拾ってくれたお兄さん。車は「TOYOTA」の輸入車 

職探しは困難を極めたが、ヒッチハイクは案外と快調だった。
一日目のフィンランドでは3台を乗り継いで夕方にはスウェーデンに向かう夜行フェリーに辿り着けた。
一人のドライバーはトヨタの車に乗った日本びいきのお兄さんで、朝から満足に食事をしていないと話したら食事代と言って小遣いをくれて恐縮してしまった。
後にイギリスから北アフリカに向かいチュニジア、アルジェリア、モロッコという長いヒッチハイクの旅に出る事になるのだが、この初めて経験したヒッチが好感触だったことが“信じてめげない忍耐”を培ったのだと思える。信じられるような経験をすれば信じる事が出来る…人の信念って単純なものなのだ(笑)

ヨーロッパの中でもドイツは特にヒッチハイカー天国と言われていて、とても気安く車が止まってくれる国だった。基本的に旅人を受け入れてくれるホスピタリティー気質は「リュックサック」「シュラフ(寝袋)」「ワンダーフォーゲル」といったドイツ語の登山用語や「ユースホステル」の発祥地でもある事を考えてみると当然なのかも知れない。
おまけにドイツはアウトバーンという高速道路が国中に整備されていて(実はこれは戦時中ナチスの造ったインフラでもあるのでその評価には複雑な感情が伴うのだが)走行の快適さと利便性はヨーロッパ随一で、ハンブルグからミュンヘンまで約七〇〇キロの距離のドイツを一日で縦断する事も可能なくらい各国ヒッチハイカーからの評判も良い国だった。

ドイツではベンツに乗った中年夫婦が拾ってくれた。途中のカフェテリアで休憩しながらコーヒーを驕ってくれて、話によると第二次大戦で足を失ったらしく運転中は気がつかなかったが義足という事だった。
別の機会にオランダ人のドライバーから自分の父は日本との戦争で戦死したという話を聞かされた時には返す言葉を失って困った事があったが、今回はドイツという同盟国の兵士でもあったので戦争で失った足の話を辛いながらも共有して聞けたのだった。

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 ▲カフェでひと休み。とても親切にしてくれたベンツの夫婦 

就活のためのヒッチハイクではあったが、私のヨーロッパ放浪生活を別の側面から価値あるものにしてくれた、あの時若かったからこそ出来た体験だったように思う。

世界の情勢も変わってテロが頻発している状況の中では、ヒッチハイクなんて無謀としか言いようのない行為かも知れない。これからはあの様な人情の交流を体験する旅は出来ないのかと思うと、ますます世界は分かり合えなくなるのではないかと危惧してしまう。
情報化、コミュニケーション・テクノロジーが発達して人の繋がりがきめ細やかになるのかと思いきや、その反対でますます世界は混沌として殺伐とした関係性で成り立つようになって来たとは皮肉なものである。

 


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'71年7月、ナホトカに着く [青年は荒野をめざした/番外編]

 

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 ▲旧ソ連南端のナホトカ港(当時は撮影が一切禁止だったので着港する前に隠し撮影)  

横浜を出たハバロフスク号は3日目に旧ソ連南東の港町ナホトカに着いた。
私にとって初めての海外の地、そして憧れ続けたロシア民謡の聞こえる大地
そういった思い入れからか、すべてが純朴な感じで建物のクリーム系の色彩さえも優しいレトロ調に感じてしまう。

夕刻、仕事から帰路に着く人々のざわめきも安らぎの象徴のようで快い。
往来の生活風景を眺めながら、ハバロフスク行き夜行列車に乗るためにナホトカの小さな駅で時間をつぶしている。ソ連国内は自由に旅行が出来ないため、インツーリストという国営旅行会社のパックツアーに参加しなければ国内を通過出来ない時代だった。それで集団行動の苦手な私も不本意ながら俄かづくりの「日本人団体さん御一行」の一員となっている訳だ。

この時代の田舎の風景はどこの国でもお国柄に即した素朴な生活感があった。
ナホトカの若者たちにもひと昔前の日本人の生活風景を思い出させる微笑ましいものを感じた。
男性のファッションは作業服が多く目について、女性の服装にしても艶やかな色彩がない。走り去る車は旧式の塗装の剥げたものばかり
で、街灯はといえば木の電柱に裸電球が付いている。まるで日本の昭和30年代にタイムスリップしたような、街全体にセピア色のフィルター
がかかっているような錯覚を感じた。

殺風景な広場の一角にくすんだ塗装の公会堂のような建物があり、屋根に取り付けられたスピーカーからは何やら時代遅れのポップスらしき音楽が流れていて耳を傾ける若者たちが集まっていた。
当時はまだプレスリーやビートルズといったロックベースのアグレッシブな音楽は一般には解禁になっておらず、若者向けに流れる音楽は国産の古めかしいポップスくらいのものだった。
首都モスクワの都会まで行けば多少は進歩的な若者たちが海賊版などで西側の音楽を聴くことがあるかも知れないけれど、この辺ぴな田舎町にはそういった先進的な流行文化を取り入れる環境も整っていない。そうやってそれぞれの土地の文化水準や気質は形成されてゆくものなのだとも思った。

しかし“新しい文化を知らない”という事はそれほど不幸な事なのだろうか?
五木寛之著「さらばモスクワ愚連隊」では当局の目を逃れてアンダーグラウンドで西側のジャズを楽しむビート族と称される若者たちの生態が描かれていたが、そこにはモスクワの都会特有の退廃的な雰囲気も描かれていたように見えた。
先進的な知恵と感性は新しい世界を切り開く創造的な発想に貢献をするが、同時に様々な矛盾と不均衡を生み出す事にもなる。
 
この国が後にペレストロイカという政治改革によって連邦国家を崩壊させることになるとは考えもしなかった。 

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 ▲ナホトカ駅のプラットホーム。これから夜行でハバロフスクに向かう

私自身これから始まるヨーロッパでの放浪生活はまさに様々な矛盾と葛藤の表われだったのかも知れない。
初めて足を踏み入れた異国の町ナホトカでのひとときは、この先に直面する悪戦苦闘の日々を想像することも出来ないくらいほのぼのとした時間だった。

 


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欧州放浪物語~スピンオフ [青年は荒野をめざした/番外編]

 

【老いて荒野をふりかえる】

ヒッチハイクでヨーロッパ中を駆け巡り、時にはアルバイトに就いて異国の街に暮らし、少し蓄えが出来ればまた旅に出る…
そんな生活の一部を、五木寛之氏へのオマージュを込めて「青年は荒野をめざした」というタイトルで自分のホームページやブログで発表していたのが20年以上も過去になる。

当時の視点で書かれたルポは今読み返してみると、稚拙な文章である事も勿論だが欠落した部分も多く、歳を経た現在から見ればテーマの選定や視点に対して違和感がある事も事実だ。

当時は気づかなかった事やタブーだと思って削除していた事など、時の流れを経て新たな別のアングルから青春の放浪を検証し、綴ってみたい。 
これは過去の物語の様でもあるが、実は今日の私の温故知新という“気づきの日記”でもある。

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【未知への憧れ】 

1960年代から70年代にかけて、世界中で若者たちが台頭して社会の流れを形成していった時代だった。
これまでの世界でも様々な変革はあっただろうけれど、これほど若者が主体的に社会的イノベーターになった時代は我が国では高杉晋作や坂本龍馬たちが活躍した明治維新に次ぐ勢いではなかっただろうか。(背後に老獪なフィクサーが居たとか居なかったとかいう話はまた別問題として…)

私が横浜からヨーロッパめざして出航したのは1971年の夏で、'70年の大阪万博が開かれた翌年だった。
'60年代後半は第二次世界大戦が終わって20年が過ぎた頃で、世界を取り巻く新たな問題が各国で噴出していた。
アメリカはベトナム戦争、フランスは学生運動、東欧では「プラハの春」と言われた解放運動が起こり冷戦時代の象徴的な事件の数々が新聞紙上を賑わせていた。
日本国内では学生運動の終焉とも言える東大安田講堂事件や自民党55年体制での三島由紀夫割腹事件など、ひとつの激動の歴史の曲がり角を象徴した時代でもあった。

それでも若者には世界に対して夢と希望があった。
まだ見ぬ「来るべき世界」に心ときめかせる純情があった。
“可能性に心惹かれる”そんな気概がある限り世界は健全さを保てるものなのだろう。

若者が老獪になってしまっては社会が閉塞的になる。
物わかりの好い若者で埋まってしまってはマイノリティの往き場所がなくなるものだ。
馬鹿な夢を見て馬鹿な試みをしてみる、そんな“ゆとり”が人間にとってはオアシスなのかも知れない。

一ドル360円換算で現金20万円をトラベラーズチェックに換え片道切符で出航した。
世界は常に混沌とした問題と危険性を孕んでいたが、現代のように狂気じみてはいなかった。
学生だった私は漫画や映画に夢中になりながら世界を夢見ているごく普通の若者だった。

そんな普通の若者が海外に飛び出てゆく事になるとは、やはり時代の空気や教育といったものが大きく影響するものだと思えてならない。
父親は私が幼少の頃に 
♪ 俺が死んだら三途の川でよ~鬼を集めて相撲とるよ~ ♪ ゆけや~ゆけゆけアマゾン川へよ~ ♪ といった、開拓団の唄をよく歌って聞かせた。
若い頃に外交官志望だった父は、海外雄飛というヒロイズムを私に植え付けていたのかも知れない。考えてみれば、私の中には幼い頃すでに“殻を破って飛び越える”という行動則のようなものが芽生えていたように思える。
生まれた時代の空気や受けた教育の与える影響とは、良くも悪くも根深く重いものである事に変わりはない。

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「青年は荒野をめざす」というロマンに酔って海を飛び越えた時代。
現代では理解する事も難しいかも知れない時代の感性と価値観だが、そこを生き切ってきた者には未だに見果てぬ夢が横たわっているのかも知れない。
素材は過去の旅行記だが、今を生きる視点からのスピンオフでもある。
過去の旅を綴り追体験することは、私にとってこれまでのタブーを越えてカミングアウトを通して新たな気づきの次元を生きるような予感がしている。

 


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