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小説「ゼロの告白」/第六章 [ギャラリー]

【ゼロの告白/第六章~限界の淵】

 人生は一度切り。過ぎた時間は返ってこないし死んでしまえばそれっきり。そんな事は分かっているけど何故か見てみたい間際の淵。
 「卵が先か、鶏が先か」という言い回しがあるけれど、どちらが原因とも判断つかない因果関係はよく見られる事で、この男の場合も死の淵に立たされる経験は何処から来るものなのかは実は良く分からないでいた。生涯に何度も体験して来た生死の境い目はもしかすると幼い頃の流転の生活がそうさせたのかも知れない、いやそうに違いないとも思えるのだった。

 若い頃から意識の中で占めていた「どんな環境でも生き延びられる人間になりたい」という願望は既に幼い頃の行動にもその兆候が見られていたようだ。どんな環境でも生き延びられるという事は裏を返せば「どんな環境が生き延びられない限界なのか」という命題を突き付けられている事になる。どこまでが可能で生きることを許される範囲なのかいつも考えては試してみたがる、気が小さいくせに冒険的な実験に好奇心を持つ子供だった。デパートの屋上に遊園地のあった時代、この少年は遊園地で遊んだ後はいつも親の目を盗んでそっと屋上仕切りのフェンスを乗り越えてしがみ付きながら片足を宙に浮かせては“この世の生存の限界”を実感しながら確かめていた。
 スリルの快感を味わっていた訳ではない。その行為は言い知れぬ不安と恐怖に襲われる逃れたいほどの苦痛だったが、それなら何故敢えて求めるのかという問いがこの男の個性の不条理な部分でもあった。学生の頃は様々な自己矛盾に悶々としながらも前に進まなければ落ちこぼれてゆく時代の強迫観念に追い立てられ、その理由を探るよりもとにかく前に進む行動あるのみという結論で行くしかない時代でもあった。

高台の家.jpg

 

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新世紀の発想~書き換えられてゆく思想 [21世紀の種]

【書き換えられてゆく思想】…そんなキーワ-ドが浮かんだ。
21世紀も18年目を迎えて(が過ぎて)新世紀の斬新さが褪せようとしている感じがする。

一例として挙げれば、今世紀に入って“テロリスト”という言葉がこれまでの20世紀とは違った概念で定着しているように思える。「同時多発テロ」という言葉で一般化して広く行き渡ったのは2001年9月11日の貿易センタービル事件だった様に思うが、それによってテロという言葉の意味合いと位置づけが決定的に変わったのではないだろうか。
ジョージH・W・ブッシュ大統領の時にフセイン政権のイラクが“悪の枢軸”と位置付けられたように、世界貿易センタービルのテロ行為がイスラム教徒による聖戦(ジハード)と同系列に息子のジョージ・W・ブッシュ大統領によって“世界の敵”として万民に刻み込まれた。

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私の中にある『テロ』という言葉は、例えば“暴力による世直し”に近い意味合いである。この言葉の意味合いが捉え方として正しいのか間違っているのか分からない。テロを容認する意味ではないけれど、テロ行為自体には単純に“悪意”として片付けられないものがある事を忘れないでおきたいと思う。勿論テロという暴力行為は決して許されるものではない。しかし『テロ』という言葉で括る事で問答無用の悪業行為と結論づける事には多くの危険性を孕んでいる事を忘れてはいけない。世の中の歪んだ正義感が冤罪を生んでいるのが現場を知る者の正直な感想なのだ。
明治維新、二度の世界大戦、朝鮮戦争といった国内外の動乱によって社会基盤は元よりそれまでの日本の思想的基軸は大いに揺さぶりを受けた。今生きている日本人の殆どは(勿論私自身も含めて)それ以前の価値観を実体験として知らない。プロパガンダで歪めて刷り込まれた「旧日本の時代遅れとなった忌まわしい習慣」ばかりが嘲笑されたりもする。必然性があって変化してきた価値観なのだろうが、私が重要と考えるのは「何故こうなったのか?」という因果関係の事実を知る事なのだ。決して過去が素晴らしいとか時代を戻すことを志望するのではなく、自分たちがどう生きてきたのかを検証する事が必要だという事なのだ。
何故なら私たちはいつの時代も「過去を自分の都合の良い様に書き換えて残す習性がある」ねつ造の歴史を生きているからなのだ。
<H30.06.01 記>

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 [追記:反権力に対して反社会的レッテルを貼る]

世の東西を問わず、権力というものは異議を唱える勢力を駆逐するために反社会のレッテルを貼って正義の名のもとに抹殺するという手段を取って来た。そしてその発想と手法は大きな政治問題や社会問題にとどまらず、現代では一般市民の暮らしの中にでも見られる様になって来た。乱暴な言い方をすれば“捏造と冤罪”はごく日常的な現象であり、それは煽情的な大衆の善意の鉄槌が行う愚かしくも悲しい習癖の結果でもある。
マジョリティに対して媚びと寄生で生きている者たちは結局マイノリティを貶める事でしか自己の安息を得られない。一見知性的で善良そうな人間が“身勝手な平和”を得ようとして凶暴な偽善を振りかざす原因はそんなところにあるのかも知れない。

 

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