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みんな違って、みんな良い。 [◎ネガティブ・ケイパビリティ]

ネガティブ・ケイパビリティ。それは現代版「逆転の発想」。

これまで久しく、否定的な思考や発言はマイナス思考として煙たがられてきた様に思う。
どんな時も明るく楽しそうに肯定的な見解で語る事が正しいとされて来た。

しかし本当にいつもそうだろうか?
一個人の性格にしても伸び伸びと成長し続ける事だけが正解だろうか?
民主主義と多数決の原則は整合性があるだろうか?(私たちはとんでもない誤解を教え込まれて来たのでは無いだろうか?)ものの考え方や個人の行動には“同調”なんて本当は必要ないに違いない。本来は足並みなんて揃える必要はない筈なんだが、団体行動を主軸とする組織ではやはりそれが規範となる。
異端だとか異色だとかいう呼び方は形容として仕方ないかも知れないが実に失礼な言い方の様に思える。「みんな違って、みんな良い」というフレーズもあってダイバーシティという考え方も啓発されている割には、綺麗ごとだけで実際には少しの承認も実践もされていない。みんなが一斉に声を上げるものは常に変色して本道からずれてゆくもので、だからこその“みんな違って、みんな良い”なんですけれどネ。


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視点を変える事で様々な問題が解決される事が多い。世の中には沢山の難解な問題が蓄積されている様に思われているが、それは人々が本気で解決するための行動を起こしていないからなのだ。本当は殆どの問題は解決可能なのだが…。
問題解決の切り口のひとつのヒントとして“ネガティブ・ケイパビリティの視点転換”を推奨します。

 

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咬ませるという行為~愛咬 [随想随筆]

猫や犬と暮らす生活が子供の頃から久しく続いているが、ある時ムツゴロウ・畑正憲さんが犬のしつけ方の紹介で、犬の口を丸ごと自分の口で覆って銜えるのを見て驚いた。これは犬との信頼関係を築くのに効果的な方法で、決して牛耳るための仕草ではなく信頼関係を築いた上でしつけを進めると云う事だった様に覚えている。
頬や額、手の甲へのキスは人間の愛情、信頼表現のひとつであることを考えると口唇というものはコミュニケーション手段として重要な役割を負っているように思える。偽りや中傷を振りまく“口頭の行為”とは違って、口唇は“真実と情愛を生み出すためのツール”というのは大袈裟だろうか?
そして愛情の表現に優しく緩やかな「ソフト・ラブ」と厳しさを兼ね備えた「ハード・ラブ」があるように口唇の行為にも、先の“銜える伝え方”とは別の“咬む”行為がある事も忘れてはならない。

咬むという行為は攻撃的で相手を威嚇している場合もあるが、別の視点から見ればそれは相手への信頼度を測る“疑いのバロメーター”でもある。そう云えば「風の谷のナウシカ」でナウシカが野生のキツネリスに指を噛まれるシーンがあったのを思い出す。
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                           <「風の谷のナウシカ/第一巻」[コピーライト]徳間書店>
野生のキツネリスは後に『テト』と呼ばれてナウシカに付き添う友となるのだが、その対応はまさに友情と信頼を築くための示唆を含んでいるものだった。
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                          <「風の谷のナウシカ/第一巻」[コピーライト]徳間書店>
咬まれても恐れとか痛みとかを表わさず、痛みを受け止めて緩和吸収し、復讐として吐き戻さない行為。それは相手の中にある怯えや恐怖心を和らげて本能的な攻撃性を受け止めて癒す意味でもある。ある種の信念が無ければなかなか出来るものではないことも事実だ。信頼をベースにした平和というものはこうして築かれるものなのだ。(ちなみに余談ですが「愛」が平和のベースになる要素だとは私は考えていません。その美辞に隠れて争いの種を蒔く事も多いからです)

愛情表現のひとつといわれる「愛咬」は相手に対する愛おしさの高ぶりが衝動的に咬ませる行為で、それによって愛情を確認し所有しようとするわけだが、咬ませるという行為はその欲求を否定・削除せず包み込む事によって相手を生かせる行為とも云えるだろう。
愛咬で表される愛情はエゴ=利己的な欲求の発揮だが、それを拒否せず受け入れて咬ませることは献身的マゾヒストとも解釈される、人間の観念世界にしか有り得ない実に人間的な表現なのである。自分を傷つけようとする(危害を加える)相手を、理解し包み込んで受け入れようとする行為は、自然界では有り得ない「不自然」とも言うべき行為なのである。人間とは自然の摂理に逆らう事で世界を構築し存在してきたとも云える。

 

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